2017年11月05日

ブレードランナー・2019〜2049

「ブレードランナー2049」を、再度鑑賞しました。一回目(公開初日)は字幕を観たので、二回目は吹き替えにしました。もちろんですが、未だ観ていない人は、先ずは字幕を観てください。そして、もう一度観るのならば、補完的に吹き替えを観ると、視覚を映像に集中できるので、いいと思います。

僕は、一作目のブレードランナーも、82年の公開初日に観にました。前宣伝では、派手な戦闘シーンが展開するスペクタクルだと煽っていたので、期待とは全然違う内容に拍子抜けしました。公開当時にブレードランナーを観た連中は、みんな面白くないと思ったはずです。なのに、なぜか、観終わった後に、感想を語り合って盛り上がっていたのです。「二つで充分ですよ、わかってださいよ」とか「おい見ろよ、なんかへんなもんが落っこちてたぜ」とか「タンホイザーゲート」とか「Cビーム」とか・・・ そのようなセリフのディテールにこだわって、ストーリーはどうでもよくて、登場人物には感情移入できないし、なんかよくわかんなくて、奇妙な感じなのです。ヴァンゲリスの音楽と、シド・ミードのデザインと、多文化混在で、退廃的で、汚くて、古くて新しい近未来イメージが面白かったのです。

僕は、音楽を担当したヴァンゲリスが大好きだったので、映画を観る前から、劇中挿入曲のメモリーズ・オブ・グリーンの収録されたアルバム「流氷原・See You Later(1980年)」を持っていました。それが、唯一のレコードでリリースされていたブレードランナーに使用された曲でした。その後、1989年のベストアルバムに挿入曲が3曲収録されて、オリジナルサウンドトラック盤は、1994年まで出ませんでした。ですから1985年に出たニューアメリカンオーケストラが演奏したレコードを、ビデオ音源に多重録音で合成して、編集版を自作して聴いていました。



SFは、大前提としてフィクションであり、フィクションとは、虚実を現実のごとくに辻褄を合わせて描く事ではなく、現実のままでは表現できない本質を描き出す手段として、それを虚実に置き換える事です。それは文学的な文章表現としての、小さな意味での比喩ではなく、大きな意味での、物語全体のテーマが普遍性のある比喩になっているということです。

ブレードランナーが公開された82年当時の社会背景は、まだ東西冷戦時代で、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻していましたから、中東の情勢も今とは違います。日本はバブルの前で、ヨーロッパやアメリカにも、まだ移民問題はありませんでした。そんな時代に、近未来を予測した移民問題の比喩は、全然リアリティーがありませんでした。つまり、数名の不法移民がテロリストとして潜入して、市民に紛れ込んでいるとします。それを探し出して始末する捜査官の話だとすれば、それが、現在であれば、とれもリアルな話なのですが・・・

2049で、ネクサス8たちが革命軍を結集する計画は、喩えるならIS(イスラム国)です。それをクルド人勢力に始末させ、その次はクルド人が独立国を作ろうとします・・・

さて、続編では、ストーリーの連続性や、一作目の世界観を壊さずに踏襲しながらも、イメージの更新を試みています。夜の黒い世界から、砂漠のオレンジ色に、酸性雨から雪に変わっています(雪は、新海監督の「秒速5センチメートル」みたいです)。そして、今回は、予算をかけて細部まで手抜きなく、丁寧に作られていています。前作が誤解されているのは、予算を節約した安っぽさが、B級映画的なダサかっこよさで、逆におしゃれなセンスなのだと勘違いされているところです。たとえば、ビルの壁面の大型ディスプレーに、芸者の顔が大きく映って「強わかもと」を食べているのは、ステレオタイプの間違った日本のイメージであって、日本文化が小馬鹿にされているのですが、それに食いつくデリカシーの無い日本人たちが、後から流行に乗った、典型的な俄かファンなのです。今回の映画には、そういう馬鹿っぽさはありません。

前作も、続編も、タルコフスキーのオマージュが散り嵌められていて、映画好きの心もくすぐるし、哲学や宗教(聖書)の要素も潜んでいて、とても知的な映画なのです。

The Sacrifice


Solaris


CGが発達して、どんな空想もリアルに描けるようになりましたが、未来のイメージは、まだCGが無い時代の、ブラジルやディユーンが描こうとしたそれを感じさせます。

Brazil


Dune


2049は、主人公Kの自分探しの物語です。
Kは記号です(シリアルナンバーKD9-3.7の頭文字)。
※ Kは、フィリップ・K・ディックのミドルネームから引用した説もあります。
ジョイ(AI)は、Kは特別だと言って、ジョーと名付けます。
そして、Kにとっても、ジョイは特別な存在になります。

Kは、自分が特別だと思い込みます。自分には特別な記憶があるからです。しかし、レプリカントに移植する偽物の記憶を作成するステリン博士は、それらの記憶の中に、本当の自分の記憶も混ぜていました。Kは、特別ではありませんでした。そして、ジョイも、大量生産の複製品に過ぎないと気づきます。

AIのプログラムが1と0と二文字の配列なのと同様に、人間やレプリカントの遺伝子(DNA)も、アルファベット(ATGC)四文字の配列に過ぎません。 二文字は四文字の半分でも2倍美しいというセリフが、前作の「No Two Two Four」「二つで充分ですよ」というセリフに呼応します。

ジョイは、ウォレス社製の製品で、それを買ったKに忠誠を尽くすようにプログラムされています。Kもウォレス社製の製品で、クライアントの警察に忠誠を尽くすようにMEMEが書き込まれているはずです。ラブもウォレス社製の製品で、ウォレスに忠誠を尽くします。旧型のネクサス8は、タイレル社製の製品ですが、DNA(自己保存本能)が優位に作用しています。しかし、ネクサス8は、奇跡を観ることで、レプリカントのMEMEが生じて、人類と敵対して団結します。MEMEのために戦うのは聖戦であり、MEMEのために命を捧げるほうが、より人間的だと考えます。Kは、自分が特別だと思い込むことで、ウォレスのMEMEが不安定になり、レプリカントのMEMEに触発され、自分なりの意思が芽生えます。

2049には、賛否両論ありますが、私は、賛のみ、否定的な批判はしません。
しかし、私だったらこうする、みたいな対案はあります。たとえば、ジョイ役のアナ・デ・アルマスは、申し分なく魅力的で、適役なのですが、そういう問題ではなくて、私だったら、ジョイには女優を使わずに、CGで描きます。日本には優秀なゲームクリエーターがいますから、彼らに制作を依頼すればいいと思うし、もっと単純な、アニメのようなキャラクターデザインでもいいし。そのほうが、テーマの本質が明確化できたと思います。

ブレードランナーのファンは、少なくとも潜在的にはオタク気質なので、Kが孤独で内向的に描かれるほど感情移入できると思います。つまり、Kは生身の女性を愛するのはなく、2次元に萌えるようなオタク野郎であると。

そう考えると、ジョイは完全にアーティフィシャルであるべきだろうと考えます。映画ではそれが可能だったのですから、試みて欲しかったです。もしそれが成功すれば、前作には無い発想の、レイチェルを凌ぐ萌えキャラが誕生したかも知れません。

特別だと思い込んだジョイとの会話も、想定されたレスポンス(プログラム)に過ぎないと疑う虚しさ。しかし、自分とは、そもそも最初から確立された絶対的個性なのか? それとも複製品(プログラム)同士であっても、その関係「縁起」に生じる相対性なのか? それを考える哲学的な問いです。

前作で残された謎は解けましたが、続編から登場したウォレス正体は何なのか、ステリン博士はどうなるのか、レプリカントの革命は成功するのか・・・ このこの先にもまだ続く余地を残して終わりました。

【前回の記事】⇒ http://enologue.seesaa.net/article/454477429.html
posted by eno at 00:11| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月27日

ブレードランナー2049

待ちに待った続編、封切り日の初回上映を観てきました。


さて、ネタバレ無しで、何をどこまで書けるか・・・
とりあえず頑張って書いてみます。

前作では、最初のほうのタイレル社のシーンが夕陽で、その他は殆どのシーンが夜で、雨が降っていて、ラストシーンで雨がやんで、夜が明けて、終わります。続編では、昼間のシーンが多く、雨ではなく、雪が降ります。メカデザインは、外観的には前作とあまり変わりませんが、ブラウン管は無くなり、液晶画面になりました。街には3Dフォログラムが溢れています。描かれている世界は、ずいぶん変わったなぁ〜、という印象です。

一作目は、フィルムノワール的な雰囲気や、タルコフスキーの「ストーカー」を思わせるような表現が見られたり、未来的というよりも、ノスタルジックな映画でした。続編は、もっとSF的で未来的です。それは、良くも悪くもあるのですが、未だCGが無い時代の映画と、CG技術の発達した今日的な映画の違い(差)があるのでしょう、映像は美しいです。

Stalker


結局、内容については殆ど語れません、ネタバレの壁があります。
哲学的な深まりがある、とても良質、とだけ申し上げておきます。

また、もう一度観て、もう少し踏み込んだ(ネタバレも含む)レビューを書くつもりです。 
  
※ これはネタバレではなく、公認で公開されている、短編フィルム三本⇒ 続きを読む
posted by eno at 19:33| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月18日

観○光 ART EXPO 2017 京都展 ― 縁 ―

京都、御寺泉涌寺に行きました。
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観○光 ART EXPO 2017 京都展 ― 縁 ― が開催中です(参加しています)。

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御寺泉涌寺本坊小方丈、五行の庭に面した一番奥に、ひっそり展示。

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出品作「泉涌図」40F・パネル・キャンバス・アクリック・墨・その他。

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泉涌寺長老、上村貞郎猊下と。

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御来賓の門川大作京都市長と。

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オープニングパーティーが始まりました。

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パーティーが終わって、京都の夜、あっぱれ屋で深夜まで。

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泉涌寺の名前の由来である泉の水が、泉涌水屋形の前に湧き出ています。

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月輪陵(つきのわのみさぎ)後月輪陵の拝所の前で。

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ラジオ関西「寺谷一紀のまいど!まいど!」の寺谷さんと、吉川亜樹さん。

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御座所の庭で紅葉を眺める吉川亜樹さん。
 
posted by eno at 22:35| 仕事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月12日

黒猫

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「黒猫」4F・2017年・アクリック。
東京藝術大学130周年。
★「 東京藝術大学チャリティーオークション展
11月10日(金)〜13日(月)
10:00〜17:00(入場は16:30まで)
東京美術倶楽部 東美ミュージアム4階
東京藝大ゆかりの芸術家(卒業生、教員)110名が若手芸術家支援のため出品。
※ 制作プロセス https://www.facebook.com/enokitoshiyuki/posts/1451417774895522
posted by eno at 21:53| 動物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月09日

ゴンドラ

昨夜は、下北沢の映画館トリウッドで、「ゴンドラ」を観ました。
1986年制作の映画を、30年を経てリバイバル上映です。結論から言うと、とても面白い映画でした。しかし、面白いといっても、万人受けするタイプの作品ではありません。監督が撮りたいように、妥協無く撮った作品なので、観る側の感性が合えば、素直に理解できるし、合わなければ、理解できないかも知れません。理解というよりも、感じ取る、といったほうがいいですね。セリフは少なくて、感じる(考える)間があって、観終わった後も、ずっと考えさせられます。「答えはこうだ」的な説明が無く、観る側が自分で考える作品です。この映画には、リピーターが多いのですが、もう一度見て、答え合わせがしたくなるのかも知れません。そして、もう一度観ても、やはり答えは説明されないので、観た時の自分が、また考えさせられるのです。だから、何度でも観たくなるのしょう、たぶん、わかんないけど。
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映画を観る場合、自分が映画に入って、楽しんで、出てくる(帰ってくる)のが、娯楽です。遊園地に行って帰ってくるような感じです。それに対して、映画が自分の中に入ってくるのが芸術です。僕が常日頃言っていることですが、芸術はMEMEです。芸術は、自分に入り込んで、自分の一部を書き変えます。観る前と、観た後と、同じではなくなります。世界の見え方が、少し変わるんです。

これは、僕が答えを模索する中でふと思ったことですが、この作品が制作された1986年は、チェルノブイリ原発事故が発生した年です。そして、当時学生だった私は、青森県の六ケ所村の核燃料所再処理工場の建設計画に反対署名する運動に参加しました。
この映画の聖地(ロケ地)青森県の仏ヶ浦(仏ヶ淵)は、下北半島の西側の海岸で、間に陸奥湾を挟んで、六ケ所村は東側の海岸ですが、やはり地元の漁業にも風評被害などの影響があっただろうと推測します。この映画の中では、政治的なメッセージは一切伏せられていますが、状況証拠として、そのような状況の中で、監督の考えは反映していると思います。昨夜の木内みどりさんのお話しからも、ひしひしと感じました。

撮影にも使用された海岸が、今は原発が建てられて、無くなっているそうです。近くでは「原発建設反対」の幟旗もはためいていて、その場面も撮影したそうですが、映画では使われていません。

あえて描かない、あえてレビューに書かないのが相応しいと思います。感じる人が感じること、それが正しい(普遍性かな)と思います。昨夜の木内さんの話を聞いていたら、つい、そのような問題にも言及したくなってしまいました(^_^;)

主人公の少女「かがり」を演じた村上桂子ちゃん(当時13歳)は、特に可愛過ぎず、誰かのようではなく、誰のようでもある、普遍的な少女像です。
たとえば「千と千尋の神隠し」の千尋も、そういうイメージです。どこにでもいそうな、普通の10歳の女の子です。

この世と、あの世と、「千と千尋の神隠し」も「君の名は。」も、まるで「ゴンドラ」の真似をしたのではないのか? と思わせるほどに「ゴンドラ」は、既に、30年前に、その世界観を描いていました。

人間に解決できない問題も、最終的には自然が包み込んでくれます。現実には、解決できない問題が山積みですが、仄かに明るい気持ちで、映画は終わります。エピローグは、描けば描けるだろうけれど、あえて描かずとも、観た人が、それぞれに考えればいいし、考える必要は無いのかも知れません。

posted by eno at 18:55| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする