2018年07月22日

呪い返し(のろいがえし)

もし、誰かに呪われたら? そのような言葉を発せられたら?
自分も同じように呪いを返さなければならないのでしょうか?
いいえ、その必要はありません。人を呪って善いことなんて何一つありません。
ただ、相手の言葉を受け取らなければいいのです。
あなたの言葉(呪い)は私に届きません、と分からせればいいだけのことです。
受け取りを拒否された言葉は、差出人に送り返されます。
本当に、ただそれだけのことなのです。それだけでいいのです。
 
posted by eno at 14:43| 思った事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月13日

守破離

「守破離」は、武芸において、型から入り、型を破り、型から離れる、という成長の三段階を示す言葉です。この考え方は、他の物事にも当て嵌めて応用出来ます。しかし、多くの人々が、その解釈を誤解しているかも知れません。

「守」は、ひたすら型に倣い、習得することです。しかし、それだけを続けていると「型どおり」「型に嵌った」などと表現されるように、成長に行き詰まりを感じます。型とは、万人向けの規制品だからです。規制の型を卒業し、独自の型を編み出す段階に進まなければなりません。

次に「破」は、型を破ることですが、型を否定する意味ではありません。型は基本ですから、基本は変わりません。破るのは、型に依存して、自分の殻に篭もる「守りの姿勢」です。ですから、あえて決まりに反逆して「守」を破るのです。

そして「離」も、型を否定する意味ではありません。もし、型から離れることが、型をやめることならば、それは型を失うことです。「型が無ければ形無しだ〜!」などと言う人がよくいますが、全くその通りです。むしろ「もう型破りをやめろ!」という意味です。嵌ったり、破ったり、いつまでも型に囚われていないで「守・破」から離れなさい、と言っているのです。反〇〇や、アンチ〇〇というのが、最も〇〇から離れられていない“呪縛”の状態です。「離」とは、自然体のことです。

誤解は、自分に都合のいい解釈の捻じ曲げから生じるものです。
自己正当化しないで、自分を客観的に見つめ直してみればわかることです。

では、ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」を例に考えてみましょう。
「神は死んだ」という言葉がありますが、さて、これは「守・破・離」のどれに当て嵌まる」でしょう?

ニーチェの父親は、キリスト教の神父でした。ですから、ニーチェは、生まれた時から、父親に押し付けられ、キリスト教の信者でした。「神は死んだ」という言葉は、信仰の呪縛、そして父親の呪縛から、ニーチェが脱却した瞬間の心境です。リヒャルト・シュトラウスの交響詩を思い浮かべて想像してください。

ニーチェは、精神の三段階の成長を比喩して「駱駝・獅子・赤子」と表現しています。
「駱駝」とは、ニーチェが、大学で神学と古典文献学を学んだ時代のことです。それは、駱駝が重い荷物を背中に担ぐ様子に喩えられています。
「獅子」は形骸化した概念(固定観念)を打ち砕く、破壊力の象徴です。
ニーチェは、新聞を激しく批判し、否定しています。ニーチェの時代は、マスメディアは新聞しかありません。ですから、ニーチェは、マスメディアを激しく批判していたのです。つまり、反メディアは、今に始まった事ではなく、メディアの誕生と同時に、伝統芸のように存在していたわけですが、そのようなアンチ〇〇の心理が「獅子」です。

それらと同時に、ニーチェは「ルサンチマン」を批判しています。
実は、ニーチェが否定したかったのは、神でもマスメディアでもないと思います。
本当に批判したかったのは、ルサンチマンであり、大衆なのです。ですから、それらを見下し、軽蔑しました。ニーチェは、宗教に依存する信者を批判したかったのです。新聞を鵜呑みにするバカを批判したかったのです。

「赤子」は、呪縛から解放された自由な精神のことです。
ニーチェ自身、自分のコンプレックスを嫌というほど自覚していたはずです。教会を否定したところで、それらは何も変わりません。離れたって、離れたところにあるだけで、相手も、自分も、何も変わらないのです。新聞だってそうです、自分が読もうが、読むまいが、何も変わりません。ニーチェは、なかなか赤子になれません。

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posted by eno at 14:24| 思った事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月10日

機会費用と御縁

読書の話ですが、今更ながら中上健次を読みました。
たぶん、自分には相性が悪いだろうと、読まずにそう決め込んでいました。
で、実際に読んでみると、やはり、思った通り相性が悪いのです。

先ずは「18歳」を読んで、18歳くらいの男の子は、精液ばっかり出しているのは、まあわかります。次に「19歳の地図」を読んで、公衆電話が、今だったらインターネットなのだろう、とか思ったりしました。それで、それなりに面白い部分もあるのですが、でも、もういいと思いました。しかし、もう一つだけ読んでみようと思って「千年の愉楽」を読み始めました。ところが、ちっとも読み進まなくて、誰にも感情移入できなくて、途中で読むのをやめました。

だったら感想を書く必要も無いのですが、ただ、単に面白くないからスルー、というのとも少し違います。もしかしたら、もう少し我慢して読めば面白いのかも知れない、とも思うのです。しかし、結論としては、読まなくていいと判断しました。それが「相性が悪い」ということなのです。

本を読むには、それなりに時間を費やします。もし、この本を読まなかったら、その機会費用を別の何かに交換できます。でも、それは読んでみなくちゃわからないことなのです。ですから、それらは全て御縁なのです。
 
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posted by eno at 00:08| 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月30日

犬ヶ島

映画「犬ヶ島」を観ました。


公開初日(25日)に観たかったのですが、あれこれ予定が重なって、今日になってしまいました。
高まった期待値を遥かに超える面白さでした。

お話し(ストーリー)というより、表現が面白いのです。それは、言葉では説明できないので「観ろ!」としか言えません。お腹に響くような和太鼓の重低音が、印象的で効果的です。だから、絶対に劇場で観たほうがいいです。 
  
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posted by eno at 22:20| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月12日

パターソン

映画「パターソン」のDVDを観ました。


最近、色々な映画を観ているものの、バカバカしい娯楽作品ばかり選んで見ていたせいか、感想を書いていませんでした。久々に心に残る映画を観たので、感想を書きます。

登場人物が素敵です、犬もかわいいし。道で出会った 少女とのシーン が好きです。

この映画では、詩がテーマになっているので、言葉(セリフ)が多いのですが、それらは詩ですから、ストーリーを説明する意味を持っていません。むしろ無言に近いと考えていいでしょう。言い換えれば、無言もまた詩に近いということです。

ジム・ジャームッシュ監督といえば、1984年の『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(Stranger Than Paradise)が印象的でした。
ストーリーらしいストーリーがなく、セリフの無い、無言のシーンが多く、何が言いたいのか、よくわかりませんでした。つまり、何かを言いたいのではなく、ただそれを見せたいということなのでしょう。


やはり、パターソンも、物語性の無い坦々とした映画でした。
どうして、こういう映画を面白いと思うのか? 不思議です。
でも、僕は、こういう映画が好きです。
実は、映画にとって、ストーリーは、あまり重要ではないんじゃないかな? と思うのです。
もちろん、ストーリーが面白いから好きな映画もありますが、観た後で、心に残っているのは、あのシーンが良かったとか、あのセリフが良かったとか、全体としてよりも、断片的なシーンだったりします。ですから、そのようなシーンの集積のような映画は、心に残る良い映画になるはずです。ストーリーは、それらを繋げて、見る者を引き込む流れです。それが、急流であったり、あるいは淀みであったり、緩急があったり、作品によって、差があるのではないでしょうか? ただそこに浮かんで、漂うように、同じ景色を眺めているだけで、何処にも流されない映画もあるのです。
 
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posted by eno at 00:20| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする