★ 前回 は、蛇使いの女から、蛇女(メドゥーサ)まで、蛇にまつわる謎解きになりました。
今回は、国宝『那智瀧図』の謎解きです。
この絵は、子供の頃から何となく知っていて、私が最も好きな絵の一つです。
絹本に彩色、縦160.7cm 横58.8cm、掛軸としては、とても大きい絵です。
この絵に描かれている瀧は、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』を構成する熊野三社の御神体、飛瀧権現(那智御瀧)です。
和歌山県那智勝浦に在る那智の瀧は、落差が133mもあり、栃木県日光の華厳の瀧、茨城県大子の袋田の瀧と共に、日本三名爆の一つに数えられています。
権現(ごんげん)とは、仏教の仏様が、仮の姿として、神道の神様の姿で現れることです。
那智の瀧は、紀元前662年、初代天王の神武天皇の時代に、神道の神、大己貴神(大国主神)が瀧の姿で現れたと解釈され、自然の瀧それ自体が御神体として崇拝されます。
仁徳天皇の時代(313年‐399年)にインドから渡来した裸形上人が、那智の瀧の滝壺で修行中に黄金の如意輪観世音菩薩坐像を見つけたとされ、それを仏教の御本尊として、現在の青岸渡寺である如意輪堂が建立されます。
那智の瀧の姿は、千手観音菩薩のように見える(感じられる)と言われます。
千手観音菩薩が、仮の姿として、那智御瀧の姿を借りて、日本人の前に現れたと解釈するそうです。
このような、神仏習合の解釈を本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)といい、この掛け軸は、その御神体を描いた垂迹画(すいじゃくが)の御本尊です。
明治元年の神仏分離令による廃仏毀釈で、多くの仏教美術がガラクタ化し、散逸します。
那智瀧図は、武器商人であった赤星弥之助(1853‐1904)のコレクションになりました。
弥之助の没後、大正6年(1917)息子の鐡馬(1882‐1951)がコレクションを売立に出します。
収集家の根津嘉一郎(1860‐1940)が、那智瀧図を落札しました。嘉一郎の没後、1941年に根津美術館が開館し、那智瀧図は収蔵品になります。
昭和6年、旧国宝に措定され、昭和26年、国宝に指定されました。
江戸時代以前の記録はありません。
1958年、フランスの作家、アンドレ・マルローが日本を訪問し、この絵を見て「アマテラス!」と叫んだと伝えられ「滅多に私は自然というものに感動させられることがなかったが・・・」「滝は、あの滝は、太陽のサクレ(聖なるもの)であると言ってはいけないだろうか。見たところ、那智の滝は落下している。だがイマージュとしては、同時に上昇してもいるのだ。その点、これらの杉の大木と意味は少しも変わらない」「…この飛瀑図は、至高の記号であり、カリグラフィーである…月は、滝の、まぶしい可逆的となっている…」などと感想を述べたそうです。
1974年、マルローは、那智の瀧を「自然の精神化としての神」「内より実在する自然である」と述べ、実際の那智の瀧を訪問しています。
マルローといえば「神護寺三像」を高く評価したエピソードでも知られています。
マルローによって、これらの絵が脚光を浴びるようになり、おそらくその当時まだ子供であった私でさえも知ることになったのでしょう。
画面を詳細に見て行くと、瀧の下のほうに拝殿が描かれていて、その拝殿の左側に描かれているのが、卒塔婆(そとば)らしいのです。
卒塔婆は、弘安4年(1281年)に亀山上皇(1249‐1305)が、蒙古退散を祈願して奉納したと考えられています。
飛瀧権現(大国主神であり千手観音菩薩)に、神風を吹かせてくださいと頼んだ、ということですね。
従って、熊野御幸(くまのごこう)の後、13世紀末から14世紀初め頃に、亀山上皇が京の絵師に命じて那智瀧図を描かせたのではないか? と推測する説が有力とされています。
絵の構図を見ると、絵師が瀧を写生した位置は、如意輪堂(青岸渡寺)から、少し瀧に向かって近づき、上は銚子口から背景の山、下は滝壺から拝殿まで、瀧全体が見える位置であったろうと推定します。
この絵が描かれた当初の色は、現在の色とは違っていると思いますが、全体的に暗く、特に空が暗いことから、夜の情景を描いていると推定されています。
経年劣化で変色して暗くなっているのだとすれば、夜ではないのかも知れません、断定することは難しいです。
仮に夜だとすると、山の上に顔を出しているのは月輪ということになります。
夜でも、満月の光があれば、瀧は白く浮かび上がるように見えます。
実際に、私も、那智の瀧に行って、観察して確かめています。
山の樹木が紅葉しているので、11月頃の瀧を描いたのだろうと推理しました。
晴れた満月の夜に、同じような見え方の那智の瀧を見ました。
ここで、謎というか、矛盾が生じます。
絵師は、如意輪堂の周辺から、遠目に瀧を見ていたと思います。
望遠レンズで撮影したような、大きな月輪の見え方で描かれています。
しかし、私も実際に現地で観察しましたが、瀧は、北を背に南向きに落ちています。
満月は、南の空から、瀧に正対し、月光を照射しています。
瀧の背後に月輪が見えるはずがあり得ません。百歩も千歩も譲って、描かれている位置に月が見えたとするならば、逆光になった崖は暗くなり、瀧は見えないはずです。
当然ですが、絵師は日中に写生を行なっているはずです。
その下絵を元に、夜に見た瀧の色合いを思い出して彩色したのだろうと思います。
夜を想定して描いたとわかるように、月輪をレイアウトしたのでしょうか?
月輪の図像を仏教的に解釈すれば、千手観音菩薩の心を象徴します。
その月輪を円相に見立てれば、他の垂迹画に見られる特徴にも一致します。
東京国立博物館の春日本地仏曼荼羅や、春日鹿曼荼羅にも、山上に浮かぶ大円相が描かれています。
神が垂迹し、本地仏が姿を現す鏡のイメージが重なり、円相が中央に表されたと考えられます。
もう一つ、那智の瀧には、八咫烏がいます。
八咫烏は、三本足の烏の姿をしています。
アニメーション映画『すずめの戸締り』で、すずめを道案内する椅子も、三本足でした。
神武天皇も、すずめも、九州の日向から船で出発して、東に向かいます。
瀬戸内海を通って、大阪湾からの上陸を試みた神武天皇は、それに失敗し、紀伊半島を回って、那智勝浦からの再上陸に成功します。
その理由は、天照大神の子孫である神武天皇は、太陽を背にして、光の指し示す道に向かって、大和の橿原(かしはら)に降臨するのが正しい、と考えたから、とされています。
東征に八咫烏が登場するのは、ここからです。
丹敷浦(にしきうら)現在の那智の浜に到着した神武天皇は、那智の瀧を発見し、そこで八咫烏に出会います。
そこから八咫烏の導きにより、中州(なかつしま)奈良県の宇陀まで行きます。この区間は、ほぼ直線状の北上ルートです。
東征の後、八咫烏は、那智の瀧に戻り、烏石になって、今もそこに休んでいる、とされています。
天照大神が太陽で、八咫烏は日時計の針と同じように、方角を示す影の喩えとも考えられます。
南から北に差し込む太陽光線によって出来る自分の影法師は、北を指し示しています。従って、太陽に正対する那智の瀧の発見こそが八咫烏との出会い、と考えることができます。
神社では、天照大神を象徴する青銅の鏡を御神鏡として、太陽に正対するように祀ります。
神社では、天照大神を象徴する青銅の鏡を御神鏡として、太陽に正対するように祀ります。
那智大社には、御神鏡が無く、那智の瀧が御神体であり、御本尊です。那智瀧図で、瀧の背後から、瀧と共に太陽に正対している月輪は、この瀧が御神体であり、御本尊であると示すために、神社に祀られる御神鏡を比喩して描かれたのかも知れません。
つまり、三種の神器の一つである、八咫鏡です。
八咫鏡と八咫烏は、セットで考えられているのだろうと思います。
八咫鏡の中に棲んでいるから、八咫烏と名付けられたのだと考えるべきでしょう。
ちなみに、八咫の意味は、長さです。
1咫が約18cmなので、その8倍で、144cmです。
八咫鏡の直径は46.5cmなので、円周は46.5×3.14 =146.01cmです。
中国の故事に『金烏玉兎(きんうぎょくと)』があります。『金烏』は太陽、『玉兎』は月です。
太陽の中には三本足の烏が住んでいて、月の中には兎が住んでいる、という神話です。太陽と月なので、歳月が過ぎていくことを言います。
月に兎がいるのは、月を眺めていると兎が餅をついているような影が見えるので、納得できます。
太陽に烏がいるのは、古代人が、太陽黒点を観測して、黒い点なので烏に喩えたのではないか? という仮説があります。
八咫烏が三本足だと書かれている最古の文献は、平安時代中期(930年頃)の「倭名類聚抄」です。
この時代に、中国から『金烏』の伝承が日本に伝わり、八咫烏と同一視され、三本足になったと思われます。
中国に残る最も古い『三足烏(さんそくう、さんぞくう)』の考古学的遺品は紀元前5000年の中国揚子江下流域に遡ります。
古代中国の文化圏で広まっていた陰陽五行説では偶数を陰、奇数を陽とします。太陽は陽なので、太陽に関係する金烏は三本足である、とされたのではないか、という説があります。
それ以外にも、三本足の理由を考えてみます。
那智の瀧の参道には道案内の鳥居が立てられています。
古代の鳥居には、三柱鳥居(みはしらとりい)があります。
この鳥居は、古代の鳥葬と関係しています。鳥葬は、古代ペルシャのゾロアスター教に始まり、日本に渡来しました。ハゲタカがいないので、死者の魂を天に運ぶ鳥は烏(カラス)です。
三柱鳥居の烏は、天(太陽)から来て、天(太陽)に帰る特別な烏です。
昔から、烏の死骸を見ないと言われ、烏は地球上に棲んでいない説があります。
三柱鳥居の由来は不明ですが、渡来人秦氏・陰陽道・ユダヤ教・修験道に由来するなど、諸説あります。これらの説は、面白いのですが、ちょっと怪しいです(笑)
もう一つは、那智の瀧を見に行って思ったのですが、瀧の銚子口を見ると、三本の筋に分かれて流れ落ちているのです。那智の瀧は、太い一本の瀧ではなく、中央がやや太く両脇がやや細い三本の瀧として落ち始め、途中から合わさって一本になります。
那智の瀧が先か、八咫烏が先か、互いに三本という共通点から比喩し合っているように思えます。仏教で『三』は、三宝、中道、悟り、を意味する数字です。神道では、三柱(造化三神)を意味します
この那智瀧図は、神道をテーマに描こうとした絵なのか? 仏教をテーマに描こうとした絵なのか? どちらの意味も重ね合わせようとした絵なのか? いずれにせよ、いつ、誰が、何のために描いたのか謎なのですから、何故そんなふうに描いたのだろう? という疑問に対する答えは、どのような仮説を立てても、それを立証する記録が見つからない限り、永遠に謎のままです。
実際に、那智の瀧の前に立ってみると、マルローが「この瀧は落ちているのではない、登っている」と言ったように、昇り龍を感じます。
地形的に、周囲を山に囲まれた谷間で、落差が130メートル以上ある懸崖です。
海から近く、強い風を受け、上昇気流が発生します。私が観に行ったときも、晴れた青空に、突然、瀧の真上から白龍のような雲が湧き出ました。
アニメ映画『千と千尋の神隠し』のハクにそっくりな雲です。
強い風に煽られると、瀧筋自体も、大蛇のようにうねります。
那智瀧図を描いた絵師が誰なのかわかりませんが、那智の瀧を観察して、きっと私と同じような感覚を体験したであろうと思います。
絵の描き方を見ると、研究者が指摘しているように、宋元画の手法が見て取れます。
推定通りに、元寇(蒙古襲来)直後の時期に描かれた絵だとすると、元(蒙古)に滅ぼされた南宋の絵師が、日本に逃れて、蒙古退散を祈願したこの絵を描いた可能性もあります。
空想を描く山水画ではなく、現実を写す真景図でもなく、自然を観察する中から神性を抽出して描いています。
鋭い一筋の瀧の姿は、日本刀を思わせます。日本人の、日本独自の、日本の宗教画の始まりではないでしょうか?
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