2024年06月05日

謎解き那智瀧図

前回 は、蛇使いの女から、蛇女(メドゥーサ)まで、蛇にまつわる謎解きになりました。
今回は、国宝『那智瀧図』の謎解きです。
 
那智瀧図.jpg

この絵は、子供の頃から何となく知っていて、私が最も好きな絵の一つです。
絹本に彩色、縦160.7cm 横58.8cm、掛軸としては、とても大きい絵です。

この絵に描かれている瀧は、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』を構成する熊野三社の御神体、飛瀧権現(那智御瀧)です。
和歌山県那智勝浦に在る那智の瀧は、落差が133mもあり、栃木県日光の華厳の瀧、茨城県大子の袋田の瀧と共に、日本三名爆の一つに数えられています。

権現(ごんげん)とは、仏教の仏様が、仮の姿として、神道の神様の姿で現れることです。
那智の瀧は、紀元前662年、初代天王の神武天皇の時代に、神道の神、大己貴神(大国主神)が瀧の姿で現れたと解釈され、自然の瀧それ自体が御神体として崇拝されます。
仁徳天皇の時代(313年‐399年)にインドから渡来した裸形上人が、那智の瀧の滝壺で修行中に黄金の如意輪観世音菩薩坐像を見つけたとされ、それを仏教の御本尊として、現在の青岸渡寺である如意輪堂が建立されます。

如意輪観音菩薩.jpg

那智の瀧の姿は、千手観音菩薩のように見える(感じられる)と言われます。
千手観音菩薩が、仮の姿として、那智御瀧の姿を借りて、日本人の前に現れたと解釈するそうです。
このような、神仏習合の解釈を本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)といい、この掛け軸は、その御神体を描いた垂迹画(すいじゃくが)の御本尊です。

明治元年の神仏分離令による廃仏毀釈で、多くの仏教美術がガラクタ化し、散逸します。
那智瀧図は、武器商人であった赤星弥之助(1853‐1904)のコレクションになりました。
弥之助の没後、大正6年(1917)息子の鐡馬(1882‐1951)がコレクションを売立に出します。
収集家の根津嘉一郎(1860‐1940)が、那智瀧図を落札しました。嘉一郎の没後、1941年に根津美術館が開館し、那智瀧図は収蔵品になります。
昭和6年、旧国宝に措定され、昭和26年、国宝に指定されました。
江戸時代以前の記録はありません。

1958年、フランスの作家、アンドレ・マルローが日本を訪問し、この絵を見て「アマテラス!」と叫んだと伝えられ「滅多に私は自然というものに感動させられることがなかったが・・・」「滝は、あの滝は、太陽のサクレ(聖なるもの)であると言ってはいけないだろうか。見たところ、那智の滝は落下している。だがイマージュとしては、同時に上昇してもいるのだ。その点、これらの杉の大木と意味は少しも変わらない」「…この飛瀑図は、至高の記号であり、カリグラフィーである…月は、滝の、まぶしい可逆的となっている…」などと感想を述べたそうです。
1974年、マルローは、那智の瀧を「自然の精神化としての神」「内より実在する自然である」と述べ、実際の那智の瀧を訪問しています。
マルローといえば「神護寺三像」を高く評価したエピソードでも知られています。
マルローによって、これらの絵が脚光を浴びるようになり、おそらくその当時まだ子供であった私でさえも知ることになったのでしょう。

画面を詳細に見て行くと、瀧の下のほうに拝殿が描かれていて、その拝殿の左側に描かれているのが、卒塔婆(そとば)らしいのです。
卒塔婆は、弘安4年(1281年)に亀山上皇(1249‐1305)が、蒙古退散を祈願して奉納したと考えられています。
飛瀧権現(大国主神であり千手観音菩薩)に、神風を吹かせてくださいと頼んだ、ということですね。
従って、熊野御幸(くまのごこう)の後、13世紀末から14世紀初め頃に、亀山上皇が京の絵師に命じて那智瀧図を描かせたのではないか? と推測する説が有力とされています。

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絵の構図を見ると、絵師が瀧を写生した位置は、如意輪堂(青岸渡寺)から、少し瀧に向かって近づき、上は銚子口から背景の山、下は滝壺から拝殿まで、瀧全体が見える位置であったろうと推定します。

この絵が描かれた当初の色は、現在の色とは違っていると思いますが、全体的に暗く、特に空が暗いことから、夜の情景を描いていると推定されています。
経年劣化で変色して暗くなっているのだとすれば、夜ではないのかも知れません、断定することは難しいです。
仮に夜だとすると、山の上に顔を出しているのは月輪ということになります。
夜でも、満月の光があれば、瀧は白く浮かび上がるように見えます。
実際に、私も、那智の瀧に行って、観察して確かめています。
山の樹木が紅葉しているので、11月頃の瀧を描いたのだろうと推理しました。
晴れた満月の夜に、同じような見え方の那智の瀧を見ました。

ここで、謎というか、矛盾が生じます。
絵師は、如意輪堂の周辺から、遠目に瀧を見ていたと思います。
望遠レンズで撮影したような、大きな月輪の見え方で描かれています。
しかし、私も実際に現地で観察しましたが、瀧は、北を背に南向きに落ちています。
満月は、南の空から、瀧に正対し、月光を照射しています。
瀧の背後に月輪が見えるはずがあり得ません。百歩も千歩も譲って、描かれている位置に月が見えたとするならば、逆光になった崖は暗くなり、瀧は見えないはずです。

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当然ですが、絵師は日中に写生を行なっているはずです。
その下絵を元に、夜に見た瀧の色合いを思い出して彩色したのだろうと思います。
夜を想定して描いたとわかるように、月輪をレイアウトしたのでしょうか?

月輪の図像を仏教的に解釈すれば、千手観音菩薩の心を象徴します。
その月輪を円相に見立てれば、他の垂迹画に見られる特徴にも一致します。
東京国立博物館の春日本地仏曼荼羅や、春日鹿曼荼羅にも、山上に浮かぶ大円相が描かれています。
神が垂迹し、本地仏が姿を現す鏡のイメージが重なり、円相が中央に表されたと考えられます。

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もう一つ、那智の瀧には、八咫烏がいます。
八咫烏は、三本足の烏の姿をしています。
アニメーション映画『すずめの戸締り』で、すずめを道案内する椅子も、三本足でした。
神武天皇も、すずめも、九州の日向から船で出発して、東に向かいます。
瀬戸内海を通って、大阪湾からの上陸を試みた神武天皇は、それに失敗し、紀伊半島を回って、那智勝浦からの再上陸に成功します。
その理由は、天照大神の子孫である神武天皇は、太陽を背にして、光の指し示す道に向かって、大和の橿原(かしはら)に降臨するのが正しい、と考えたから、とされています。

東征に八咫烏が登場するのは、ここからです。
丹敷浦(にしきうら)現在の那智の浜に到着した神武天皇は、那智の瀧を発見し、そこで八咫烏に出会います。
そこから八咫烏の導きにより、中州(なかつしま)奈良県の宇陀まで行きます。この区間は、ほぼ直線状の北上ルートです。

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東征の後、八咫烏は、那智の瀧に戻り、烏石になって、今もそこに休んでいる、とされています。
天照大神が太陽で、八咫烏は日時計の針と同じように、方角を示す影の喩えとも考えられます。
南から北に差し込む太陽光線によって出来る自分の影法師は、北を指し示しています。従って、太陽に正対する那智の瀧の発見こそが八咫烏との出会い、と考えることができます。
神社では、天照大神を象徴する青銅の鏡を御神鏡として、太陽に正対するように祀ります。

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那智大社には、御神鏡が無く、那智の瀧が御神体であり、御本尊です。那智瀧図で、瀧の背後から、瀧と共に太陽に正対している月輪は、この瀧が御神体であり、御本尊であると示すために、神社に祀られる御神鏡を比喩して描かれたのかも知れません。
つまり、三種の神器の一つである、八咫鏡です。
八咫鏡と八咫烏は、セットで考えられているのだろうと思います。
八咫鏡の中に棲んでいるから、八咫烏と名付けられたのだと考えるべきでしょう。
ちなみに、八咫の意味は、長さです。
1咫が約18cmなので、その8倍で、144cmです。
八咫鏡の直径は46.5cmなので、円周は46.5×3.14 =146.01cmです。

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中国の故事に『金烏玉兎(きんうぎょくと)』があります。『金烏』は太陽、『玉兎』は月です。
太陽の中には三本足の烏が住んでいて、月の中には兎が住んでいる、という神話です。太陽と月なので、歳月が過ぎていくことを言います。

月に兎がいるのは、月を眺めていると兎が餅をついているような影が見えるので、納得できます。
太陽に烏がいるのは、古代人が、太陽黒点を観測して、黒い点なので烏に喩えたのではないか? という仮説があります。

八咫烏が三本足だと書かれている最古の文献は、平安時代中期(930年頃)の「倭名類聚抄」です。
この時代に、中国から『金烏』の伝承が日本に伝わり、八咫烏と同一視され、三本足になったと思われます。

中国に残る最も古い『三足烏(さんそくう、さんぞくう)』の考古学的遺品は紀元前5000年の中国揚子江下流域に遡ります。
古代中国の文化圏で広まっていた陰陽五行説では偶数を陰、奇数を陽とします。太陽は陽なので、太陽に関係する金烏は三本足である、とされたのではないか、という説があります。

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それ以外にも、三本足の理由を考えてみます。
那智の瀧の参道には道案内の鳥居が立てられています。
古代の鳥居には、三柱鳥居(みはしらとりい)があります。
この鳥居は、古代の鳥葬と関係しています。鳥葬は、古代ペルシャのゾロアスター教に始まり、日本に渡来しました。ハゲタカがいないので、死者の魂を天に運ぶ鳥は烏(カラス)です。
三柱鳥居の烏は、天(太陽)から来て、天(太陽)に帰る特別な烏です。
昔から、烏の死骸を見ないと言われ、烏は地球上に棲んでいない説があります。
三柱鳥居の由来は不明ですが、渡来人秦氏・陰陽道・ユダヤ教・修験道に由来するなど、諸説あります。これらの説は、面白いのですが、ちょっと怪しいです(笑)

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もう一つは、那智の瀧を見に行って思ったのですが、瀧の銚子口を見ると、三本の筋に分かれて流れ落ちているのです。那智の瀧は、太い一本の瀧ではなく、中央がやや太く両脇がやや細い三本の瀧として落ち始め、途中から合わさって一本になります。

那智の瀧が先か、八咫烏が先か、互いに三本という共通点から比喩し合っているように思えます。仏教で『三』は、三宝、中道、悟り、を意味する数字です。神道では、三柱(造化三神)を意味します

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この那智瀧図は、神道をテーマに描こうとした絵なのか? 仏教をテーマに描こうとした絵なのか? どちらの意味も重ね合わせようとした絵なのか? いずれにせよ、いつ、誰が、何のために描いたのか謎なのですから、何故そんなふうに描いたのだろう? という疑問に対する答えは、どのような仮説を立てても、それを立証する記録が見つからない限り、永遠に謎のままです。

実際に、那智の瀧の前に立ってみると、マルローが「この瀧は落ちているのではない、登っている」と言ったように、昇り龍を感じます。
地形的に、周囲を山に囲まれた谷間で、落差が130メートル以上ある懸崖です。
海から近く、強い風を受け、上昇気流が発生します。私が観に行ったときも、晴れた青空に、突然、瀧の真上から白龍のような雲が湧き出ました。
アニメ映画『千と千尋の神隠し』のハクにそっくりな雲です。
強い風に煽られると、瀧筋自体も、大蛇のようにうねります。

那智瀧図を描いた絵師が誰なのかわかりませんが、那智の瀧を観察して、きっと私と同じような感覚を体験したであろうと思います。

絵の描き方を見ると、研究者が指摘しているように、宋元画の手法が見て取れます。
推定通りに、元寇(蒙古襲来)直後の時期に描かれた絵だとすると、元(蒙古)に滅ぼされた南宋の絵師が、日本に逃れて、蒙古退散を祈願したこの絵を描いた可能性もあります。

空想を描く山水画ではなく、現実を写す真景図でもなく、自然を観察する中から神性を抽出して描いています。

鋭い一筋の瀧の姿は、日本刀を思わせます。日本人の、日本独自の、日本の宗教画の始まりではないでしょうか?

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2024年05月30日

蛇使いの女 

前回の予告通り、ルソーの『蛇使いの女』について書きます。
来年は巳年ということで、テーマを広げて、蛇についても考えてみます。

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この絵は、たぶん中学の美術の教科書に載っていたかなにかで知ったと思います。
私は新宿区民だったので、子供の頃から、新宿の街によく遊びに行っていました。
当時は、新宿駅東口に新宿アルタというビルがあって、その地下1階にマクドナルドがありました。
私の記憶が正しければ、マクドナルドの壁画が、もしかしらルソーの『蛇使いの女』の模写だったか、それによく似たジャングルの絵だった気がします。
もう40年以上も前の記憶なので、あまり正確ではないかも知れませんが、それを見てルソーをイメージした記憶が残っています。

新宿界隈で、私が好きでよく行った場所は、新宿御苑の中にある大温室でした。
この大温室が、まさにルソーが描くジャングルを彷彿とさせる場所なのです。
昔は、吉祥寺の井の頭自然文化園にも大温室があって、温室の中では、オオハシやサイチョウが飼育されていました。
私は、ルソーが描くジャングルは、そのような植物園の温室を描いていると直感しました。
描かれている動物たちも、動物園の動物たちに違いありません。
その後、ルソーについての解説書を読みましたが、やはりパリ植物園の温室を見て描いたらしいことが書いてありました。
私は、子供の頃から、動物園・水族館・植物園が大好きでしたから、ルソーの気持ちが想像できます。
学生時代、私は上野動物園の水族館(今は無い)でアルバイトをしていました。
科学博物館も大好きな場所でした。

だいぶ時が経って、サッカー・ワールドカップ・パリ大会が開催された年に、パリに旅行して、オルセー美術館でルソーの実物の絵を観ました。

ルソーは、外国旅行をしたことがなく、ずっとパリで暮らしていたそうです。

『蛇使いの女』は、友人の画家の母親から、インド旅行の体験談をテーマに描いてほしいと、注文を受けて制作したらしいのです。
もちろん、ルソー自身は、インドに行ったこともないし、蛇使いを見たこともありません。
ですから、パリ植物園の温室で見たジャングルっぽい風景に、動物園で見た蛇と、ルソーが勝手に想像した蛇使いを描いたのだろうと思います。
蛇使いが、男なのか女なのか、どんな服装で、どんな笛を吹いているのかも知らないのでしょう。
インド人だから、肌の色が黒いだろう、くらいの想像だけで描いたのかもしれません。

蛇使いの女が描かれたのは1907年です。
その6年前、1901年にウィーンで開催された第10回分離派展で、クリムト作の『医学』という作品が公開されています。
外国に行ったことがないルソーですが、その写真画像を見た可能性はあります。
その絵に描かれている女を、蛇使いだと思って参考にしたのかも知れません。

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人物の後ろの背景の塊と空間の抜けの配置が似ています。
インドニシキヘビは、水辺に生息しているので、ジャングルと水辺を描くことにしました。
参考にした絵が女なので、蛇使いは女になりました。
蛇使いの服装がわからないので、黒っぽい人影にして誤魔化しました。

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横笛を吹かせると、笛が顔の右側に突き出るので、手の向きを左右反転させました。
女の画像を左右反転させると、手のポーズが似ています。

ルソーは、クリムトの絵を、表面的に参考にしただけで、その意味を深く理解せずに描いたのであろうと推察します。
なので、出来上がった絵は、とても謎めいた絵になりましたが、ルソー自身は、この蛇使いに特別な意味を込めていません。

これが私の仮説です。
なので、ルソーの絵はここまでにして、元ネタになったクリムトの『医学』のほうを見ていきましょう。

クリムトの絵に描かれいるのは、題名の『医学』の通りに、病と死に苦しむ人間たちの前に立ちはだかるギリシャ神話の医学の女神ヒュギエイアです。
ヒュギエイアは、アポロンの息子である医学の神アスクレーピオスの娘です。
女神が手に持ってるのは、薬の液体が入ったガラス杯です。
女神に絡みついて、杯の液体に頭を突っ込んでいる蛇は、父アスクレーピオスの杖カドゥケウスに絡みつく蛇と同様に、医学のシンボルとしてのクシスヘビです。

医学のシンボルが、なぜ蛇なのでしょう?

実は、ギリシャ神話によると、アスクレーピオスは死者を甦らせる薬を使うのですが、その薬というのは、女神アテナから授かったメドゥーサの血だったのです。
メドゥーサは、不死身だったので、その生き血は薬になりました。
メドゥーサは、元々は豊穣の女神で、とても美しい女性でしたが、その美しさに嫉妬した女神アテナによって、醜い蛇女に変えられてしまいました。
蛇女にされたことで不死身になったのだとすると、蛇には不老不死の力があるということです。

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クリムトは、ベートーヴェンフリーズの中にメドゥーサを描いています。
それは、正面を向いて直立する裸婦の姿で描かれています。
クリムトは、同様の直立するポーズの裸婦『ヌーダ・ヴェリタス』も描いています。

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ヌーダ・ヴェリタスでは、裸婦の足元に、意味ありげに蛇が描かれています。
そして、クリムトは、メドゥーサを蛇女に変えてしまったアテナの絵も描いていて、アテナの手に、ヌーダ・ヴェリタスの裸婦を持たせているのです。

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おやおや? です。
もしやもしや? です。
その裸婦って、もしかしたら、蛇女に変えられてしまう前のメドゥーサの姿なのでは?
ヌーダ・ヴェリタスとは、裸の真実という意味です。
女の手には、手鏡があり、それをこちらに向けています。

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鏡といえば、ペルセウスがメドゥーサの首を切りに行くとき、アテナがペルセウスに鏡の盾を持たせます。

それは、蛇女の姿を直接見ると石になってしまうので、鏡に映して見るためです。
だとすると、鏡に映ったメドゥーサは、蛇女ではなく、元の女神の姿に見えたのではないでしょうか?
それが真実の姿という意味なのかもしれません。

ペルセウスは、ヘルメスから、翼のついたサンダル、タラリアを借ります。
そのサンダルを使うと、空中を飛ぶように走ることができます。
このヘルメスという神様も、蛇が絡み付いた杖を持っています。
ヘルメスの杖は、ケーリュイオンといい、2匹の蛇が絡み合っています。

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ヘルメスも、そもそもは豊穣の神で、子孫繁栄の道祖神として、直立した石像の姿で辻々に立っていたらしいのです。
それが、旅人にとって道標となり、ヘルメスが旅人の神様へと変わっていきます。

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子孫繁栄の道祖神だとすると、男性のシンボルだけではなくて、女性のシンボルも存在していたはずです。
古代に豊穣の女神だったメドゥーサが、そのお相手の女性だったとしたら?
メドゥーサの姿を見たヘルメスが、石のように硬くなってしまったのだとしたら?

クリムトと同時代にウィーンで活躍した心理学者のフロイトが、メドゥーサについて言及しています。
私は読んでいませんが、フロイト全集の第17巻に、フロイトの見解がが書いてあるらしいのです。
それによると、メドゥーサは、女性器を暗示しているそうです。
興味深い話ですが、コンプライアンス委員会からダメ出しされそうです(笑)
また別の機会に、榎塾とかで、詳しくお話します。

クリムトは、その他にも、蛇に関係する絵を描いています。
『水蛇Ⅰ』と『水蛇Ⅱ』です。

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クリムトは、ドイツ語で『Wasserschlangen(Freundinnen)』という題名を付けています。
直訳すれば『水蛇(女友達)』になります。
日本語訳の水蛇(ミズヘビ)は、陸上のヘビとウミヘビの中間のようなヘビです。
陸上のヘビと同じ形をしていますが、淡水中に生息していて、ほとんど陸には上がりません。
ウミヘビは、尾のほうがヒレ状に変形して、魚のように泳ぎ、海中に生息しています。

英訳で『The Hydra』と題名が意訳されている場合があって、それだと全く意味が違ってきます。
Hydra(ヒュドラ)は、ギリシャ神話の怪物で、九つの頭を持ち、沼に棲む大蛇です。
日本の神話に出て来る九頭竜や、ヤマタノオロチによく似た、大蛇型の竜です。
絵を見るかぎりでは、明らかにヒュドラとは違います。
欧米人の感覚としては、クリムトのことだから、ギリシャ神話を題材として、それを擬人化して、自分のガールフレンドをモデルにして描いたのだろう、と推察して、題名を意訳しているのでしょう。
たしかに、蛇といいながら、擬人化して描いているのは間違いないのですが。
しかし、神話のヒュドラを描いているのなら、頭が九つ必要ですが、女は二人とか、四人しか描かれていません。
これは、サブタイトルが女友達と書かれている通りに、裸の女同士が抱き合ったり、戯れている絵です。
背景に、水生生物や水草が描かれているので、女たちは水の中にいます。
おそらく、クリムトは、性的な行為の感覚を、水中で滑る蛇に喩えているのだと思います。
(コンプライアンス委員会を恐れず、ハッキリ言ってしまえば、水蛇とは水の中の蛇で、水の中の蛇とは女性器の中の男性器です)
妖艶な女たちが、見るものを誘惑する絵です。

ヨーロッパ人の精神構造は、古代ギリシャ神話が、深層心理の土台に在ります。
その土台の上に、キリスト教の聖書が、精神の支柱のように立てられています。
その支柱の上に、ルネッサンス以降の近代科学が、屋根のように載っています。

そう考えると、キリスト教的な蛇の解釈も載っかっていると思います。
蛇は、サタンの誘惑を意味する象徴でもあるからです。
人類にとって、西洋医学の発達は、知恵の樹の林檎を食べることかも知れません。
高度な知恵である科学の力によって、不死身の体を手に入れたとすると…

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ヨーロッパ文化の構造を神殿の構造に喩えると、基礎の土台が古代ギリシャ文明、構造体の支柱がキリスト教信仰、屋根(ファサード)が近代科学です。
では、それと同じように、東アジア文化も建築物に喩えてみましょう。
基礎の土台になるのは、古代中国の黄河文明です。
構造体の支柱になるのは、仏教信仰です。
そして、屋根の部分は、ヨーロッパに遅れて近代化を進めています。

では、東アジアにおける、蛇に象徴される意味は何でしょう?

古代中国の思想には、陰陽五行思想や、神仙思想があります。
古代中国の天文学では、北極星を亀に喩え、北斗七星を蛇に喩えています。
ですから、北極星の周りを北斗七星が回っている様子を、石のように動かない亀、縄のように絡みつく蛇で表し、それを玄武と名付け、北の方角を守護する神様にしました。

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蛇は、仏教的には、三毒の一つである『瞋(じん)』を象徴する動物として描かれます。
瞋(じん)とは、自分の思い通りにならないことに対する怒り・憎しみ・怨念の感情です。
そして、蛇は、絡みつくものとして、執着心にも喩えられます。
その反面、蛇が脱皮をする様子は、執着を捨てて『解脱』に至る喩えにも用いられます。

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『蛇に睨まれた蛙』という諺があります。
獲物を狙う蛇に睨まれた蛙が、恐怖のあまりに、石にように固まって動けなくなる、という意味でが…
京都大学で、蛙の行動の理由が科学的に解明されました

つまり、蛇を見た蛙は、石のように固まりますが、蛙を見た蛇も、石のように固まります。

神道の注連縄(しめなわ)は、2匹の蛇が絡み合う形に由来するそうです。
古代ギリシャの道祖神、ヘルメスの杖、ケーリュイオンに共通します。
絡み合う蛇は、交尾をしています、子孫繁栄を象徴してるのです。

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ギリシャ神話に、テイレシアスという盲目の予言者の話があります。
テイレシアスは男です。
ある日、酒に酔って山道を歩いていたテイレシアスが、交尾している蛇に遭遇します。
テイレシアスは、蛇を杖で打ちました。
すると、テイレシアスは女になってしまいました。
それから9年後、テイレシアスは、再び交尾中の蛇に遭遇します。
そしてまた、蛇を杖で打ちました。
すると、テイレシアスは、元の男に戻りました。
あるとき、ゼウスと妻のヘラが、男と女と、どちらのほうが性交による快感が大きいのかと言い争いになりました。
ヘラは、男と女と、どちらも経験しているテイレアシスに、その答えを尋ねました。
すると、テイレアシスは、男の快感が1で、女の快感が9と答えました。
その答えに怒ったヘラは、テイレアシスを盲目にしてしまいました。

この話は、交尾して絡み合う蛇が、雄雌(男女)が捩じれ、交差し、入れ替わっているようだ、と言いたいのでしょう。

『玄』という漢字は、注連縄のように、捩じった糸を表す象形文字です。
『弓』に『玄』を張ると、それは『弦』になります。
ヘルメスは、亀の甲羅に弦を張って、竪琴の元型のような楽器を作ったとされています。
亀に蛇が絡みついて玄武、亀の甲羅に弦を張ってヘルメスの竪琴。

いずれにせよ、ヘルメスが、蛇に関係してることは確かです。
蛇とメドゥーサも深く関係しています。
ヘルメスとメドゥーサの関係も、蛇のように絡み合っています。

ギリシャ神話では、ゼウスが、白鳥に変身したり、黄金の雨に変身したりして、女を襲います。
それと同様に、ヘルメスも、自ら蛇と化し、メドゥーサへと向かって行ったのかも知れません。

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2024年05月26日

印象派絵画

前回、美術教育というテーマで書きました。
その中で、アカデミックな美術教育について言及しました。
そして、西洋美術の完成形が印象派だと書きました。
それについて、解説します。

私は絵描きをやっているので、会話の中で「で、どんな絵が好きなんですか?」と、よく質問されます。
そのようなときに「印象派が好きです」と答えています。
その答えを聞くと、相手からは、おやおや、と微妙な反応をされる場合が多いです(笑)

人類は、原始人のころから、絵を描いていました。
原始人には、絵画の理論や技法は無く、本能のまま、感覚だけで描いていました。
古代文明が誕生して、設計(デザイン)や様式(スタイル)の概念が生まれます。
古代には、写実が発達したり、宗教的に抑圧されたり、紆余曲折ありました。
そして、中世には、ひたすら手本を模写して伝承する時代が続きました。
中世の終わりに、ヨーロッパで、科学という概念が確立され始めます。
その時代に生まれた芸術が、ルネッサンス芸術です。
ルネサンス芸術の画家はたくさんいますが、最も有名なのはレオナルド・ダ・ヴィンチですね。

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一般的にルネッサンスという言葉は、文芸復興と訳され、古代ギリシャ・ローマの学問や芸術を再び学び直す運動と解釈されています。
しかし、そのような単純化した解釈ではなく、もっと複雑に、様々な文化が多層的に融合し、相乗効果で発展したと考えるべきでしょう。

ルネサンス絵画では、物の形が目にどう映るのか、科学的に考え始めます。
そこから、西洋絵画というアカデミックな絵画が始まるのです。
カメラオブスキュラという、現在のカメラの始まりのような装置は、古代ギリシャ時代から、その光学的な結像の現象が発見されていました。
ルネッサンスの時代には、装置に映し出された画像を描き写し、透視図法の研究が始まりました。
それによって、ルネッサンスの画家たちが発見したのは、消失点です。
消失点の発見によって、線遠近法という作図方法が発明されます。
それと同時に、光によって、明るい部分と陰や影の部分が出来て、陰影法によって立体的に見えるように描けることや、物の輪郭は、物と背景の明暗や色合いの差によってその境界が線的に見えるのであって、絵を描くときに便宜的に引かれる線は、現実には存在しないのだから描かないようになります。
色彩の色温度が変化する(青みがかる)のは大気遠近法で、明暗のコントラストが、強弱で変化するのが空気遠近法です。
そのようにして、近代に向かって研究が進んでいきます。

そうこうしているうちに、テクノロジーの進歩によって、19世紀に入ると写真が発明されます
この写真の発明という大事件によって、西洋絵画は大転換期を迎えます。

画家の能力のうち、デッサン力は、写真に代替されてしまう、という危機感が、画家たちの間に走ります。

しかし、発明された当時の写真は、物の形を正確に写し取りましたが、視覚を再現するものではありませんでした。
初期の写真は、白黒写真で、色は映せませんでした。
そして、撮影には長い露光時間が必要だったので、動き、移ろいゆく一瞬のような映像は映せませんでした。
ですから、まだまだ人間だけに描ける絵画の領域は残されていました。

そこで、俄かに登場するのが印象派絵画です。
印象派絵画の画家はたくさんいますが、最も有名なのは、クロード・モネですね。

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印象派絵画は、画家の直感力によって生み出されました。
後に科学的な分析が進むと、それらの技法が、光の性質を的確に捉えてることがわかります。
光は、白黒写真に置き換えると、明暗の差だけになりますが、カラー写真だと、色相の違い、彩度の差、明度の強弱、の三要素の組み合わせになります。
明度の強弱は、光のエネルギー量の差であり、白黒写真には明暗差で表れます。
色相や彩度は光のどんな性質なのかというと、光は電磁波ですから、その波長が色相として表れます。
その波長の純度が高いと彩度が高くなり、違う波長と干渉し合うことで彩度が低くなります。

光を音に喩えると、明暗の対比は、音の大小、音量対比になります。
ですから、黒は、黒色(無色)ではなく、色はあるのですが、光の強さが限りなく弱まる状態なのです。
色相の変化も、音に喩えて説明します。
可聴域の音波は、波長が長いと低い音に、波長が短いと高い音になります。
可聴域に対して、低すぎると低周波音、高すぎると超音波になり、人間の耳には聴こえなくなります。
それと似たように、可視光線は、波長が長いと赤色寄りに、波長が短いと紫色寄りになります。
赤と紫の中間域は、虹の七色のように、グラデーション変化します。
赤色よりも波長が長いと赤外線になり、紫色より波長が短いと紫外線になり、人間の目には見えなくなります。
太陽光線は、プリズム分解してみると、虹の七色の全ての波長が混在していることがわかります。
つまり、あらゆる色が内在され、異なる波長が交ざり合うことで、白色光に見えています。
物の色というのは、物の表面にある色素に白色光が当たった場合に、特定の波長の光だけを反射し、それ以外の波長の光を吸収、あるいは透過させてしまうために、その物の固有色として生じるのです。
白色光を、音に喩えると、ホワイトノイズになります。
ホワイトノイズとは、砂嵐(スナアラシ)と呼ばれる雑音のことです。

画家が使う絵の具というのは、特定の色相の波長の光を反射させる色素ということになります。
絵の具には、様々な色相の絵の具が揃っていますが、その明度や彩度のバリエーションは限られています。
色相は絵の具の混色によって変化させられますが、その場合に、絵の具の性質上、混色によって、彩度や明度も同時に変化してしまいます。
なので、絵の具同士を混ぜずに、彩度も明度も変化させずに、色相だけを混色させたい場合には、目の視覚的残像効果を利用して、鑑賞者の脳内で混色させるという方法があればいいのです。
それが、印象派によって考案された、筆触分割による視覚混合技法です。
後に、カラードットCMYK印刷や、カラーモニターRGBによる混色方式が開発されると、人間の目による色の感じ方には、三原色が関係していることがわかってきます。
人間の目の中の奥にある網膜の光の受容体の、色に反応する受容体が、三原色に対応していることがわかってくるのです(四原色の受容体を持つ人もいるらしい)。
つまり、波長の違う光の波が交ざって、それらの中間の波長の色が見えてくるのは、音に喩えるならば、三原色による三和音が作られているような感じです。
音楽の和音には、澄んだ音に聴こえる協和音と、濁った音に聴こえる不協和音があります。
絵の具を混ぜて色が濁るのは、音に例えるならば、不協和音に似た現象です。
音を混ぜずに和音を作る方法に、分散和音(アルペジオ)があります。
和音を分散することで、干渉波によるアボイドノート(回避音)を発生させないテクニックもあります。
絵画を音楽に喩えた場合、混色が和音で、筆触分割がアルペジオです。
印象派絵画からは音楽的なものを感じます、例えばこんな感じ

印象派の末期に、スーラなどがやり始めた、点描による加色混合は、画家の直感によって生み出された技法ではなく、色彩理論先行の技法で、それによって、もはや目に見えた印象を描くという目的の印象派絵画は終了します。

理屈が人間を置き去りにする感じを音楽に喩えたらこんな感じ


スーラが研究していた理論(減色混合・加色混合)は、あくまでも物理学的な光の性質だけだったのです。
それを色として感じる人間の視覚は、目の仕組みを医学(解剖学・脳科学・心理学)的に研究することで解明されつつあります。

印象派の画家たちによって生み出された絵画技法は、先進的で高度なものでした。
しかし、それらが、その時代のその時点においては先進的であったとしても、テクノロジーの進歩は容赦なく追いつき、追い越していきます。
絵画理論としては、既に役目を終えた印象派絵画ですが、でも、やはり、その時代に、直感でテクノロジーの先を走っていた画家たちの筆致には、決して色褪せることのない魅力が宿っています。

子供の頃、美術に関係するテレビ番組をよく観ていました。
それらのほとんどは、イタリアのルネッサンス美術か、フランスの印象派絵画を取り扱う内容でした。
それらが、万人から好まれる絵であり、当時最も人気があったから、というのもあるのでしょうけれども、やはり、絵画の理論について、ルネッサンス絵画と印象派絵画を例に説明するのは理に適っているからでしょう。
私は、絵画の基礎となる知識の大半を、印象派絵画を通して学んだような気がします。
その後、美大受験を志すようになり、本格的に絵の勉強を始め、東京藝大に入学して、専門的な研究もしますが、やはり、根底の部分には、絵画といったら印象派が好き、という印象が残っています。

印象派の後に、素朴派(ナイーヴ・アート)が登場します。
ナイーヴ派の画家はたくさんいますが、最も有名なのは、アンリ・ルソーですね。

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ナイーヴ・アートと、よく似た意味で用いられるプリミティブ・アートがあります。
プリミティブ・アートというのは、プリ(ラテン語のprimus)から始まる言葉ですから、最初の、原始の、それ以前の、という意味の言葉です。
プリミティブなアートは、ルネッサンス以前の、まだアカデミーが無い時代のアートを意味します。
その他に、アウトサイダー・アートや、アール・ブリュットという言葉も、よく耳にします。
どれも、共通しているのは、アカデミックな美術教育を受けていないということです。

アカデミックな美術教育というのは、ご説明した通りの、ルネッサンスから始まる、科学的で客観的な、遠近法と色彩学を学ぶことです。

このようなアカデミックな教育を受けない理由に何があるでしょう?
アウトサイダー・アートというのは、アウトサイドですから、部外者によるアートという意味の言葉です。
この場合の部外者とは、疎外されているという意味ではなく、そもそも独自の価値観で別行動しているか、理由があって仲間に入れず、別行動をせざるをえない人々のアートです。
アール・ブリュットは、フランス語で、生の芸術という意味の言葉です。
社会生活や教育の影響を受けず(受けることが出来ない)、本能のままに制作されるアートです。

では、ナイーヴ(素朴)アートとは何でしょう?
先ず、印象派よりも後に登場したので、時代的にプリミティブではありません。
別行動をしてるわけでも、疎外されているわけでもないので、アウトサイダーでもありません。
普通に社会生活をして、独学で学んだりしているので、ブリュットでもありません。
ナイーヴという言葉の語源は、生まれたままの状態、という意味です。
未経験、無知、鍛えられていない、という意味で用いられる言葉です。
ですから、ただ単に、やってない奴、ということになります(笑)

我々人間の脳は、目を通して外界を見ています。
目に見えた外界を、見えた通りに絵に描こうとして発達を遂げたのが、アカデミックな西洋絵画ですが、最終的にはテクノロジーの進歩に追い抜かれ、その役目を終了しました。
ですから、行き場を失ったアーティストたちが、別の価値観を探すために右往左往し始めたわけです。
もう外側の世界にばかり目を向けるのをやめよう、目玉を反転させて、頭の中を見よう、と思い始めます。
しかし、アカデミックな美術教育を受けてしまった人が、それを忘れて目を閉じるのは、とても難しいことなのです。
ピカソが、子供のころに描いていたアカデミックな絵画から、プリミティブ・アートを模倣したり、遠近法を無視したキュビズムの絵画を描いたり、目まぐるしく変化している様子を見ると、悩み、もがき苦しんでいるように見えます。
それに対して、アンリ・ルソーは、何も考えず、子供が遊んでいるかのように、愉しそうに描いています。

基本的に、絵というのは、描いている本人が楽しければ、それでいいのです。
見る人がどうのこうの言うものではありません。
しかし、何故これをこんな風に描いたんだろうと、ああだのこうだの言うのも、それも愉しいものです。

私がルソーの絵の中で1番好きな『蛇使いの女』について、次回、書きます
謎に満ちた絵ですし、来年は巳年ということで、蛇の絵を描かなくちゃならないので、蛇使いの女から少し広げて、蛇についても考えてみたいと思います。

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2024年02月29日

鯉のぼりの正体

五月五日は端午の節句、そして子供の日、その前後の時期に『鯉のぼり』を飾る。
日本人なら誰でも知っている鯉のぼりだが、その意味や謎を考えたことがあるだろうか?

『鯉』は、世界中の川や湖に生息するポピュラーな淡水魚である。
『のぼり』は、漢字で書くと【幟】で、幟旗のことである。

幟旗の起源を辿ると、平安時代では『流れ旗』、チチを付けて竿を通すようになってから『乳付旗』『耳付旗』などと呼ばれ、神事に用いられていた。
戦国時代、戦場で武器に目印としてつけた布を、『巾』に『音』と『戈(ほこ=武器の矛)』を組み合わせた『幟』という漢字で表し、戦場で敵と味方を識別する目印として使用されるように進化した旗が『幟旗(のぼりばた)』と呼ばれるようになった。

端午の節句は、古代中国春秋戦国時代の政治家『屈原(くつげん)』が、陰謀により川に身を投げたとされる故事に由来し、五月五日に供養を行ったとされるのが始まりで、奈良時代の日本に伝わり、厄払いの行事として薬草の湯に浸かることから、この季節の菖蒲を湯に入れるようになり、鎌倉時代には武家の祭りとなり、鎧兜などの武具を飾った。
江戸時代になると、幟旗の布に武者絵が描かれた『武者絵のぼり』を飾るようになる。
江戸時代中頃には、その風習が一般庶民にも広まり、男子の成長を祝う祭りになる。
幟旗の絵柄が、武者絵から変化して、鯉が瀧を登る絵が、盛んに描かれるようになる。
明治時代になると、鯉の形の吹き流しへと変化し、現在のような鯉のぼりになる。

では、なぜ武者から鯉に変わったのだろうか?
端午の節句とは関係ないが『登龍門』という古代中国の故事があって、それに由来して、鯉の瀧登りが、男子の立身出世を祈願する絵柄だと考えられたから、というのが定説になっている。

中国の黄河は、その源流まで遡ると、雲よりも高い標高5000メートルのチベット高原の湿地帯に達する。
その水源は崑崙山脈である。
黄河に棲む大魚(おそらくチョウザメと考えられる)が、もし黄河を遡り、その上流にある龍門と呼ばれる渓谷の急流を登りきることができたならば、龍になることが出来るだろう、と書かれた故事がある。
その伝説が日本に伝わり、急流は瀧に変わり、何故か鯉が登りきった事にされている。

伝説の瀧や、魚が龍になるなど、それらは作り話であって、現実にはあり得ない。
だが、古代人が、何の根拠も無しに、そのような空想をするとも思えない。
荒唐無稽な話のようだが、やはり、何かしらそれに似た現象を目撃したに違いない。

一つの考え方として、黄河と同様に、中国を代表する大河である揚子江の上流は、ヒマラヤ山脈の方向に遡り、源流は『通天河』と呼ばれている。
その水源のヒマラヤ山脈を越えてネパール側に降りると、チトワン湿地帯があり、そこにはワニが生息している。
揚子江にも、揚子江ワニが生息していることから、殷の時代に龍のモデルとなった生き物であるワニが生息するのならば、ヒマラヤ山脈こそ龍門を意味することになるだろう。
だが、それでは瀧登りではなく山登りになってしまい、黄河ではなく揚子江の伝説になってしまう。
この解釈では納得できない。

『のぼり』という言葉は、物としての幟旗を意味する以前に、その動作を表す。
例えば『うなぎのぼり』の場合は、漢字で【鰻上り・鰻登り】と書く。
横方向に流れる動きではなくて、縦方向に上昇する動きが、本来の『のぼり』の意味だ。

日本の鯉に、何か特別な、上る様な行動が見られるのだろうか?
例えば、秋に鮭が川を遡上するように、五月ころ、鯉も遡上し、瀧を登るのだろうか?
鮭は海で育ち、産卵のために川を上り、逆に鰻は産卵のために川を下って海に行く。
しかし、鯉は上りも下りもしない、いつも同じ川や湖に留まっている。

日本の気候は、五月頃になると、温かくなる地表からの上昇気流と、まだ冷たい上空の寒気がぶつかり合い、雷雲が発生し、空から大粒の雹が降ってくる。
この時期が、鯉のぼりの季節である。
だとすると、鯉のぼりは、上昇気流と何かしら関係があるのかも知れない。

実は、鯉が空に昇る気象現象が、実際にあった可能性が高い。
ファフロッキーズ現象と、ウォータースパウトだ。

ファフロッキーズ現象とは、空から魚が降って来る怪現象のことで、古くは中世から世界各地に同様の記録が残されている。
もちろん日本でも、実際にくり返し発生している現象だ。
なぜそんな現象が発生するのだろうか?
様々な理由が考えられるが、その一つとして有力な仮説が、ウォータースパウトである。



ウォータースパウトとは、竜巻の一種である。
川や湖に発生する上昇気流が、地表の水を雲の高さまで吸い上げてしまう現象だ。
天と地を繋ぐ水柱となる。
ウォータースパウトは、川や湖の水と一緒に、その中にいる魚も吸い上げてしまい、その結果として、空から魚を降らせる現象に至る。



龍門の瀧とは、常に存在する地上の瀧ではなく、突如出現する、空中を上昇する水柱のことではないだろうか?
その姿こそが、あたかも昇龍の出現の様であり、水柱に巻き上げられた魚こそが、鯉のぼりの正体に他ならない。

龍門の故事から鯉のぼりまでの発想の飛躍は、江戸時代の人々が目にした驚きの体験に起因しているのではなかろうか?

五月の空に鯉が舞う。

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2024『鯉のぼり-Carp Ascending-』100F(プロセス)
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2023年12月10日

霊亀図考

『若冲と波山展』廣澤美術館
2023年12月7日(木)~2024年2月4日(日)
10:00~17:00 月曜休館(1月8日は開館)
※12月30日~1月1日、1月9日は休館

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伊藤若冲の『霊亀図』という奇妙な絵があります。
そもそも霊亀とは何でしょう?
古代中国の神話に登場する空想上の怪物で、動かない絶対的な基礎を象徴する、北極星の比喩でもある亀の妖怪『贔屓』の甲羅の上に、蓬莱山という岩山を載せた姿で現されます。
しかし、若冲が描いた亀に似た生き物の甲羅には、蓬莱山が載っているようには見えません。
体の後ろ半分が画面から切り取られているので、もしかしたらお尻のほうに蓬莱山が載っている可能性は否定できませんが、少なくともこの生き物を霊亀だと決定付ける根拠はありません。
もし、仮に、若冲本人も、この生物の正体が何なのわからずに描いたのだとすれば?
あえて蓬莱山を描かず(切り取り)霊亀であるかどうかは曖昧にしたのかも知れません。
あるいは、若冲本人ではなく、後のこの絵を見た誰かが『霊亀図』という題名を付けてしまったのかもしれません。
では、これが霊亀ではないとすれば、若冲が描こうとしていた謎の生物は何なのでしょう?
私の見解は、若冲は、自分では見たことのない、アルマジロを描いたのだろうと推測します。
アルマジロは、中国名では、犰狳といいます。
犰狳は、古代中国の妖怪で、山海経に記されています。
犰狳の基本形態は兎に似ていて、鳥のような嘴や蛇のような尾を持つとされています。
私の推理をもう少し押し進めてみると、江戸時代に、犰狳(アルマジロ)を描いた中国の絵があって、それが日本に渡ってきて、若冲はそれを見て、自分なりのアレンジを加えで描いたのだろうと思います。
アルマジロは、パッと見に甲羅を背負っているように見えなくもありません。
実物を見たことがない昔の人は、それを亀の仲間だと思ってしまったとしても、仕方がないでしょう。

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posted by eno at 18:32| 考察・小論 | 更新情報をチェックする