2017年09月26日

MEME(ミーム)

★ 「 MEME(ミーム) 」の定義は、ネット検索してください。
 
自分の意思だと思っているのは、実は、MEMEの指令です。
 
我々の肉体は、DNAの乗り物です( 利己的遺伝子 )。
同様に、我々の知性は、MEMEの乗り物なのです。
 
臓器としての脳は、DNAに書き込まれた設計図に従って作られます。
その性能や、特性や、先天的に備わった本能まで、設計図の通りです。
 
脳が、後天的に外部から取り入れて、学習する情報が、MEMEです。
MEMEの一つに、言語があります。知性は、言葉によって思考します。
 
肉体の欲求は、脳の信号に変換され、非言語的「情動」として発信されます。
知性は、それを言葉化して、物語化(ナラティブ)した思考を書きます。
つまり、DNAと、MEMEが、掛け合わさって、意思や情緒を創出するのです。
 
「私、私(me,me)」と言う人は、「MEME(ミーム)」と言っています。
承認欲求が強い人、自尊心に拘る人、負けず嫌い、意地っ張り・・・
MEMEに操られているのに、それを自我だと勘違いしているのです。
 
魂が肉体から分離して存在する可能性はあるでしょうか?
 
幽体離脱のイメージは、空間を漂うプラズマのように比喩されます。
しかし、魂には実態が無いので、空間を漂えません。何かに宿ります。
魂は情報です。情報は、メディア(情報媒体)に宿って、保存されます。
 
小説家が、小説を書くとは、小説家のMEMEが、ナラティブを書くことです。
文字になって、書籍化されたナラティブは、肉体の外に出たMEMEです。
音楽家が作曲・演奏すれば、画家が絵を描けば、それらもMEMEになります。
MEMEは、それを読んだ(見た・聞いた)人の心に感染するウィルスです。
MEMEに感染した心は、情緒を生み出します。つまり、魂が宿るのです。
 
私は絵描きなので、絵を描きます。
私が描く絵には、私のMEMEが宿っています。
私のMEMEは、私の絵を見た人の心に感染するかも知れません。
MEMEとは不思議なもので、MEMEのためなら死ねる、とまで思わせます。
我が身を犠牲にしても、MEMEを残したい、MEMEを拡散したい、増殖させたいと。
それこそが、MEMEの指令です。
 
posted by eno at 09:24| 考察・論文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月25日

多重人間原理

科学的に正しいことが事実だと考えるのが一般的な常識です。しかし、現実には、科学で解明できる事と、解明できない事があります。また、これまでの科学では正しいとされていた事が、科学が進歩すると覆される場合もあります。なので、科学は、ある部分ではとても正しいのですが、それだけでは不完全だともいえます。

昔は、何故そうなるのかわからなかった事が、今はわかっている場合があります。
たとえば、果物や、穀物が、なぜお酒に変わるのか? 昔は理由がわかりませんでした。放っておくと、腐ったり、お酒になったりします。常に腐るならば「生きていたものが、死んだら腐るのだ」と単純に理解すればいいのですが、時々お酒に変わるのです。これは、神様の仕業だと考えるより他にありませんでした。なので、昔は、目に見えないお酒の神様がいて、お酒を造ってくれたのです。

その世界の人々が信じていた事は、その世界では現実だったのです。今は判明している科学的に正しい物理法則がどうであれ、その時代には、その世界でコンセンサスが得られていた法則は、矛盾なく機能したのです。それが人間原理です。

ところが、顕微鏡が発明されて、微生物の存在が発見され、それらの働きが解明されるにつれて、科学的な法則が上書きされます。すると、それまで、人々の心の中にいた神様の存在意義が変化します。しかし、変化しながらも、一度書き込まれた神話の MEME(ミーム)を消去することはできません。MEMEは無かったことには出来ないのです。もっと強いMEMEが台頭する事で、それに飲み込まれる以外に変われません。情報伝達は不可逆的なのです。

たとえば、天動説は、地動説に上書きされました。しかし、天動説は消えません。やがて、地動説も相対論に上書きされます。それでも、天動説も地動説も消えません。天動説も地動説も、相対論の中で、相対的に、矛盾なく、優劣無く、生き続けています。

ガリレオ・ガリレイが、宗教裁判にかけられて、自説(地動説)を撤回して、天動説を認め「それでも地球は回っている」と言ったとする伝説があります。つまり、言葉上で何を言おうが、既に、地球が回っていることを知ってしまった以上は、不可逆的に地球は回り始めてしまったのです。その事実はもう、言葉で取り消したところで逆戻しは出来ません。事実の前では、発言の撤回など、全くの無意味なのです。しかし、地球が回っていることを未だ知らない人々にとっては、地球は未だ回っていません。そのような、異なる物理法則が、混在している状態が「多重人間原理」です。

時間の不可逆性についても考えてみます。
記憶や、記録や、シミュレーションの中では、時間の設定を早送りも、巻き戻しもできます。しかし、現実の時間は逆戻りは出来ません。これだけは、未来永劫変わることの無い絶対法則として既に証明されています。どのように証明されているのかというと、たとえばSF小説にはタイムマシンが描かれています。現在の常識では、時間の進む速度を変えることは出来ません。しかし、そもそも小説はフィクションですから、どんな嘘でも好きなだけ書いていいのです。ただし、SF小説には、暗黙のルールがあります。大きな嘘は一つだけというお約束です。相対性理論で考えると、時間の進む速度を変えることは、理論的には可能です。しかし、進む方向は「進む」だけで、戻る事は不可能なので、それが大きな嘘になります。

もしかすると、遠い将来にタイムマシンが実現する可能性は、全く無いとは言えません。そうなれば、その時代には、人間原理が上書きされ、時間の進む速度は自由に変えられることになるでしょう。でも、未来のことなので、どうなるのか、誰にもわかりません。はい、それが、時間を過去に戻ることが出来ない証明です。もし、時間を逆戻りできるタイムマシンが、未来に実現できたならば、未来から現在に戻って来ているはずだからです。そうすれば、未来の出来事がわかるはずです。未来がわからないのは、時間が不可逆的である証明です。

では、未来の出来事は、何もわからないのでしょうか?
そんなこともなくて、未来を知ることはできませんが、未来を予測する事ならできます。次の皆既日食は、何年後の何月何日で、どこで観測出来るか、そのような未来の予測は可能です。それは、天体の運行の法則がわかっているからです。宇宙の運動の法則は、ほとんどが回転運動をしています。なので、ぐるぐる回って、螺旋状に進むのです。それらの回転周期を計算すれば、宇宙の変化の大凡が予測できます。おそらく太陽は明日も昇るでしょう。それはわかっています、まず間違いありません。季節(春夏秋冬)は繰り返すでしょう。それもわかっています、まず間違いありません。しかし、地球は次第に温暖化していくでしょう、か? そのような循環していない変化を予測する事は、とても難しいのです。
 
posted by eno at 12:29| 考察・論文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月16日

輪廻と転生

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「輪廻」8F(2017)アクリック

四文字熟語で用いられる場合が多い「輪廻転生」ですが、本来は、前後を分けて考えるべき言葉です。「輪廻」は、循環を繰り返すことです。「転生」は、生まれ変りです。二つが組み合わさると、死んだ人の魂が、次に生まれてくる誰かに乗り移り「前世、現世、来世」と、繰り返されることになります。このような説を、本気で信じる(信じたがる)人々がいます。そのまま言葉通りに解釈するならば、死ぬ人数と、生まれる人数が同数になり、世界の人口は変わりません。そう考えると、かなり頭の悪い空想になります(-_-;) 子供の頃なら、サンタクロースや、地獄や、閻魔様のような、たわいないお伽噺を信じてもいいでしょう。しかし、大人になったら、幼児期の妄想を卒業しなければなりません。本来なら、考えてもわからないと気付いた時点で、納得し、心に折り合いを付け、執着を捨て置くべきなのです。しかし、現代では、逆に、急激に科学が発達した反動で「科学では解明できない謎がある」というカウンターカルチャーが浮上し、持て囃されます。そして「内心の自由・言論の自由」という人権を振りかざし「何を信じようと、言おうと自由だ!」と開き直る風潮も目立ちます。「自分が何を信じてもいい」は、「自分さえよければいい」と同質です。そのような自己正当化は、差別や対立に繋がり、テロや戦争にも発展します。

心の迷いを、オカルトやスピリチャルで誤魔化して、現実逃避するのではなく、自分の弱さに、狡さに、向き合って欲しいのです。 非言語的なもやもやした想念に、皆のコンセンサスが得られるような、的確な比喩(言葉)が与えられるでしょうか? 「生まれ変わり」に、科学に矛盾しない、本質的な解釈を見つけられるでしょうか?

「輪廻」と「転生」は、19'70年代、ヒッピー文化が、ヒンズー教の思想と融合し、若者のファッションになりました。経験が未熟で頭でっかちの大学生たちが、東洋哲学に傾倒し、革命(学生運動)に殉じた、時代の屍たちが、神秘世界にリインカネーションしました(笑)

ヒンズー教と同根の仏教では、独自に「輪廻」を解釈していて、近年になって、やっと科学のほうが追いついてきました。それは、生態系研究と、量子物理学研究の成果です。「阿弥陀教・観無量寿経・般若心経」を。「生命・進化・物質」として捉え、解釈すると、生命循環系(生態系)が見えてきます。霊魂(精神活動)の問題を横に置いて、生命を、生体(物質)として見た場合、細胞生物の集合体は、一時はある個体を形成(統合)していて、その個体の死と同時に、物質(分子・元素)レベルに分解し、別の個体に再編成します。それらは自然環境の循環システムに組み込まれていて、例えば、虫や草木を食べる動物が死に、その死体が土に帰り、その土から、虫や、草木が再生するようなイメージです。この場合、霊魂(精神活動)の問題は、考えないものとして、除外されます。

たとえば、精神活動の一つである記憶ですが、自己記憶(体験記憶)は、情報です。それは、脳細胞のネットワークメモリーとして、物理的に保存されています。であるならば、観点を変えると、脳が消失してしまっても、細胞レベルでの生命体の情報も、遺伝子(DNA)に保存されています。すなわち、細胞生物が、自分が死ぬ前に、自分の遺伝子情報だけを、自己複製することは可能です。DNAによる遺伝では、精神の記憶情報は完全に消失しますが、生体の情報(形質・性質)は、その一部が「移植」されたと解釈できます。自分が消滅して、他者に移転したのではなく、自分が分裂して、分身が誕生したので、厳密には「転生」とは定義できませんが。

科学的に、魂の記憶を転生させることは可能なのでしょうか? もし出来るとするならば、脳移植しかありませんが、それも、厳密には転生ではありません。それだと、脳を残して、体を交換したと考えるべきだからです。科学が進歩して、量子コンピュータが発達して、人間の脳の記憶情報を、完全に読み取れるようになり、それを別の脳に移植できれば、魂の転生だと定義できるかも知れません(SFの領域ですが)。

話を元に戻して、肉体と分離した霊魂が存在するかどうかは、SF的な仮説を別にすれば、現実においては、人間が考えても、わかるはずがありません。従って、考えても無駄で、意味の無いことに執着するのは「煩悩」です。自分にできないこと、わからないことは、心を空(くう)に同化する、他力に委ねることが悟りです。そして、自分にできること「御勤め」を、無心でするのが悟りです。自分の御勤めとは、其々の日常生活です。私ならば絵を描くことです。

さて、ここまで考えてきて「日々の生活で、やるべきことをやりましょう」とか、「人それぞれに、自分自身のやるべき課題を見つけましょう」とか、「私がやるべきことは絵を描くこと」とか、テーマから逸れたような結論に向っています。

以前の記事に、こう書きました。「作品とは、人生の断片であり、その時その時の魂の遺品」であると。そして、その作品を描いた作者の魂は、その時その時に死んで、その作品に移転しているのだと。人間は、生きている間に、何度も何度も魂が生まれ変ると、私は解釈しています。つまり、体験記憶の連続性はありますが、精神の有り様がリフレッシュされるのです。それまでの考え(矛盾)を潔く捨て、新生した一貫性に改める(整える)ことです。人間の体(細胞構成)は一瞬たりとも同じではありません、川の流れのように、常に変化しています「諸行無常」です。

私は、胃癌の手術を受けた事があります。そのときに胃から腸まで、共生している腸内細菌の構成(腸内フローラ)が一変しました。それを機に、人格も豹変したと感じています、確かな実感です。私を構成している私たちは、単一の私だけではありません。いわば、魂など持たない無数の細胞生物の集合体が私の人格を構成し、朧げに形成しています。意識に昇っている私と、意識に昇らない無意識の私が、海に浮かぶ氷山のような、未知の私を形作っているのです。我(自分)など無いのです。全ては「縁起」です。縁起とは、自分の置かれた環境であり、自分と共生する生命(他者)との繋がり(ネットワーク)です。つまり、縁起とは、現世そのものです、それ以外の何ものでもありません。だからこそ、縁起の中にいるのだから、縁起から逃れることができないのです。「出された飯は黙って食う」諦観するのみです。

ここで、発想を転換してみると、私は、私の魂の情報を、断片として、作品という形で、体の外部に出しましす(比喩ですが)。その作品を見た人は、もしかすると、私の魂の情報を受け取るかも知れません(比喩ですが)。フリーズドライの情報が、誰かの心に入って、その水を得たとき、そこで転生するのかも知れません(比喩ですが)。

輪廻に関しては、地球全体に生命力が充満していて、生物が、変幻自在(観自在)に姿を変えながら、生命を循環させている事実が、科学的に確認されているので、そのことをもって現実の輪廻と理解すればいいのです。おそらくそれで、誰からも異論は無いでしょう。

生命の循環に加えて、霊魂の循環もあるのでは? という問題は、霊魂が観測不可能なので、否定も肯定もせず、検証不可能とするしかありません。もしも、そのような、もやもやした想念があるとしても、それは、言語化が不可能です。無理に言語化したとたんに、陳腐化してしまいます。もやもやは、もやもやのままで、無意識の底に持ち続ければいいのです。

何かとお釈迦様を引用して解説することが多いのですが、私自身が仏教徒なので、そうなってしまいます、お許しください。しかし、考えてみれば、仏教など無い国でも、皆さん幸せに暮らしています。すなわち、仏教が有っても無くても、どちらでも全然困っていないということです。何が絶対の真理であるとか、邪教だとか、そのようなことに拘ることこそ、意味が無いのです。そう「拘り」は、言い換えれば「執着」です。愛だって、執着すれば「愛染」となり、煩悩(悪)になります。観念が固定(限定)して、視野狭窄になってはいけません。物事の名称や、意味や、解釈だって固定して決めつけないほうがいいのです。それこそ「空(くう)」です。そもそも空とは、物事の解釈に固定(執着)しないというのが本来の意味です。その意味を、そののまま狭義に固定しないで、拡張して、物質の性質ですら固定しない、変化する、と応用したのが、科学の時代である現代の解釈です。しかし、その解釈すら固定してはいけないのです。すなわち、空とは何かという意味を固定的に「こうだ」と決めて解説することが、そもそも空の趣旨に反します。心を映す鏡のように、いつでも己の心の有り様に同化するのが空です。という解釈すら、そう決めてはいけないのです。

死について考えることは、いかに善く(幸福に)生きるか、ということ(それが目的)なのです。そのためにプラスになるなら考えるし、マイナスなら考えないほうがいいのです。結局は、わからない事に対して、自分に都合がいい(自分が得をする)考え方は、「自分さえ良ければいい」と、自分に言い聞かせる自己欺瞞でしかありません。そのことが、生きている間に、他者を不幸にする原因になるかも知れないならば、そもそも最初から考える必要がないのだから、捨て置くべきなのです。

そもそも大昔は、人間が死んだら、その後、無限地獄に落ちて永遠に苦しむのではないか? という恐怖から、死ぬのが怖い、救われたい、という思いで、死後を考え始めたのが、宗教の始まりです。生きても苦なのですから、死んでも苦の意識が続く(しかも永遠に繰り返されるかも知れない)なんて、考えたくもなかったでしょう。死ねば無になって、永遠に安息したいという願いから、安らぎの比喩として、天国や極楽などを空想したのでしょう。しかし、どうすれば、地獄に落ちずに天国に行けるのか、それが生きている間の行いに係わるのではないか? という悩みに変わってしまいます。死んでも地獄、生きても地獄です。「死後の魂なんか無ければいいのに、楽になりたい、どうかお救いください」と願う人々のために「死後には、楽も苦もない、生きる苦しみから解放されるだけ、死後など考えてはいけない、よりよく生きることを考えなさい」と教え諭し、人々を救おうとしたのが救世主たちです。

死後、どうなるかなんて、選択肢や可能性すら、誰にもわかりもしないのです。こじ付けをする人も、選択肢を決めつける人も、とても愚かです。しかし、少なくともこれだけは言えます「生きている今とは、全然違います」。そして、生前の記憶は無くなります。何故なら、生きていたって、記憶喪失になると、自分が誰なのかも覚えていません。記憶は、書き込みなので、物理的に脳が保存されていれば、記憶の痕跡をサルベージ出来るのかも知れませんが、脳が損傷すると、完全に消滅します。脳死も同様で、もし、脳が損傷して、意識も記憶も失って、ただ肉体が生きているだけでも、不死で生き続けたら、死なないから幸せだ、なんて思いますか? 逆に、死後に霊魂の意識があったとして、肉体の感覚器が無いから、何も感じられず、光も音も無く、自分が誰だったか、何を考えていたのか、何も覚えていなくて、何もできない、何も変化しない、完全な孤独。そんな発狂しそうな、無刺激な意識だけが永遠に続くとしたら、最強に恐怖ですね。とにかく、死後どうなろうと、今の自分との繋がり(記憶)は、無いのですから、生前に考えていたこととか、生前に話したこととか、約束も、怨念も、やっぱりとか、ほらざまあみろとか、全部忘れています。意識があっても、言語の概念も、思考の概念すらありません、脳が無いのだから(笑)

例えばコールドスリープという肉体の凍結保存があります。解凍すると、生命も魂も復活します(下等動物では確認)。つまり、記憶(データ・メモリー)も、生命(OSプログラム)も、それらは、肉体に物理的に書き込まれている科学的証明です。なので、凍死した人の霊魂は、肉体が形を留めていると、どこにも行けないことになります。何を考えても、無意味な空想ですが、こうして、ちょっと考えただけでも、無数の選択肢があり、それ以外にも、人間の常識では思いつかないような、あっと驚く選択肢もあるのでしょう(あるか無いかもわからない)。意地になって、レトリックを駆使して自己正当化に固執する虚しさに気づいたら、生きているうちに、未だ生まれ変われるうちに、生まれ変ってください。

2013年02月07日記事「リインカネーション」
http://enologue.seesaa.net/article/389570643.html

8月9日にインドで講演したダライ・ラマ14世が、チベット仏教の「転生霊童」制度を廃止して、女性が後継者になる可能性もあると発言しました。数年前から輪廻転生の制度を廃止する考えを示唆していたダライ・ラマ14世ですが「死の前に後継者を選ぶほうが安定的だ。かつては後継をめぐる争いもあった」などと話し、自らの死去前に、高僧による会議や選挙などの方法で後継者を決める、民主主義的な改革を進める方針を表明しています。

チベット仏教では、ダライ・ラマなどの高僧は、自身の死後、生まれ変わりとされる子供を後継者に選ぶ「転生活仏制度」を用いています。しかし、もうそのような、輪廻転生を根拠とした後継者選びの制度を止めると言うのです。ただし、止めるのは、あくまでも制度です。輪廻転生を信じるか、信じないか、それは信仰上の問題ですから、チベットの人々の心の問題です。

インドでは、多くの人々がヒンズー教を信仰しています。ヒンズー教でも輪廻転生が信じられていて、古代のバラモン教から続くカースト制度(身分差別)の根拠にされています。現在のインド憲法では、宗教上の差別制度を廃止しています。しかし、輪廻転生を信じるヒンズー教徒たちは、未だに身分差別を続けています。それもまた、制度改正で解決できる問題ではなく、人々の心が決める問題なのです。

日本では、1946年に、それまで神様であった天皇陛下が「今日から人間になる」と宣言しました。突然、神様が不在になった日本では、次々に新興宗教が湧いて出て、世の中が混乱しました。その後、象徴天皇制度は、再び落ち着きを取り戻し、そして現在では、女性が天皇の後継者になる可能性もあるなど、制度改正の議論が進められています。人間宣言をしたにも関わらず、基本的人権(自由)を制限されている天皇陛下ですが、そもそも、天皇には、神通力が有ると、信じられているのでしょうか? やや疑問です。非合理な制度を存続させる意味、改正する意味を、国民は、どのように理解しているのでしょうか?

『何かを信じない者は、何でも信じる』
人々が、それぞれバラバラに、その人の信じたい事を、勝手に信じ始めたら、宗教は成り立ちません。人々の信仰心を纏めるためには、カリスマ性の強い指導者「教祖様」が必要になります。そして、教祖様には、後継者が必要になります。なので、後継者は、教祖様の生まれ変わりだと信じさせて、そのカリスマ性を引き継がせるのが、これまで続いてきた伝統的なやりかたです。輪廻転生を信じる宗教では、魂が生まれ変わったと説明します。世襲制では、同じ能力や性質を、血が受け継いだと説明します。伝統的なやり方は、長く続けば、伝統文化になります。伝統文化は、人々の生活と結びつき、簡単には変えられなくなります。そして、そのような変わらないものを、変えずに守ることが、心の拠になります。従って、人々が守って来た制度を、むやみに変えないほうがいいのです。

では、変えないほうがいいはずの制度を、何故変える必要があるのでしょうか?
それは、それらの制度が、権力に都合よく政治利用(悪用)されるからです。
民族や文化の拠にもなれば、差別の温床にもなり、人心掌握の術にもなれば、独裁者の言い訳にもなります。それらのプラスとマイナスを差し引きして、目的と手段の本質を見分けなければなりません。もし、心の中で信じ、生き続ける真理であるならば、成文化した制度や法律である必要はなく、むしろ不文律の慣習法であるべきなのです。

たとえば、憲法改正についても同様のことが言えます。第九条の二項で「戦争を目的とする陸海空その他の戦力を保持しない、国の交戦権を認めない」と、成文化してしまったことで、これを変えないことが、心の拠(信仰)になっている人々(信者)にとっては、変えさせない事が、手段と目的を転倒させています。そして、対立は政治利用されます。本当に大事な(神聖な)真理は、非言語的想念であって、成文化できないのです。平和の誓いは、むしろ、心の問題として、誰も触ることのできない、不文憲法であるべきなのです。言葉にしたときから、その言葉は、裏切られ、悪用のリスクに晒されます。真理は、言葉化することではなく、実践(行動)を積み重ねた「実績」においてのみ、証明されるのです。

科学的には「わからないことは、わからない」とするのが、正答ですが、ここまでの流れを踏まえた上でなら、もう少し踏み込んだ私の見解を話して、締め括りとしてもよさそうです。

ある人にとって得なことは、別の人にとっては損なことであり、ある人にとって都合のいい考えは、別の人にとっては都合の悪い考えになります。ですから、ある人にとって、損でも得でも無く、良くも悪くも無いことのほうが、別の人にとっても、損でも得でも無く、良くも悪くも無くて、結果的には、平等で平和なのです。お釈迦様の教えの一つが「平等」です。お釈迦様が生まれた時代は、もちろん、未だ仏教はありません。バラモン教の時代でした。カースト制という身分差別がありました。ですから、お釈迦様は、差別制度を廃止するために、宗教改革を始めたのです。

カースト制では、高僧(バラモン)は、前世も高僧、来世も高僧です。被差別民(アウトカースト)は、前世も被差別民、来世も被差別民です。ですから生まれながらにして、身分差別が決定されています。それが、原理主義的な輪廻転生の素顔です。では、お釈迦様は、輪廻と転生を、どう説明したのでしょうか? 実は、お釈迦様は、輪廻についても、転生についても、直接的には言及していません。質問されても「わからいものは、わからない」と、否定も肯定もせず、黙殺しました。しかし、その他のお釈迦様の教えから推察すると、その真意が垣間見えます。

お釈迦様の三大真理は、「空(くう)・諸行無常・縁起」です。
『「空(くう)」は、物事に定まった形や性質は無い。「諸行無常」は、物事は常に変化している。「縁起」は、物事は全て関係である。』とする真理です。それらを総合して、死後の自分を解釈してみましょう。「自分の体は無い・今の自分は無い・個別の自分は無い」となります。つまり、もう自分は、無さそうです。でも、そこに自分は無くとも、全体があるとするならば、自分の死後に生まれる全ての命に、等しく自分が分散して、未来に生まれる誰もが、何もかもが、自分の、そしてあなたの、全員の生まれ変わりなのかも知れませんね。
・・・と、こう締め括ると、ちょっといいオチみたいですが、よく考えると、自分の魂の中には、過去の全ての魂が均等に混ざっていることになりますから、ヒトラーもゴキブリもウジ虫も溶け込んでいることになります。それでもいいなら、そう信じて下さい。たぶん、お釈迦様も、そこまで考えて「あ、これはもう、なんも言わんとこ」って、スルーなさったのかも知れませんね(笑)
 
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posted by eno at 09:59| 考察・論文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月23日

恐竜は実在したのか?

誰ひとりとして、実物の恐竜を見た人間はいない。しかし、恐竜が実在した痕跡として、化石が発見されている。その化石を基に、生きていたときの恐竜の外形を復元してみると、現在我々がイメージするような姿形になる。しかし、手掛かりとなる骨格以外は、全て想像だ。また、これまでに何度も、骨格の組み立て方を間違っていた例があるし、立ち上がったときの姿勢も力学的に計算してデタラメだったりして、改められている。筋肉の付き方も推測なら、ましてや表皮のテクスチャーや色など、勝手な空想をしているだけに過ぎず、確たる根拠など無い。それでも、恐竜が実在しなかったと疑う人は、おそらく誰もいないだろう。それは、現在の我々が、物事を科学的に検証して判断するからだ。化石という動かぬ物的証拠が有る以上は、その骨格の持ち主は実在していたという結論に疑いの余地は無い。それならば、古代の人々だって、偶然に発見した巨大生物の化石を、龍やドラゴンの化石だと判断しても何の不思議も無い、それが当然である。そして、古代人が龍やドラゴンを想像するのも、現代人が恐竜を復元するのと全く同じ事だ。違いがあるとすれば、おそらく古代人は、骨の組み立て方を間違えていただろうし、生物学そのものが無いのだから、現代人から見ると、生物としてかなり矛盾した形を想像してしまっているところだ。さらに勝手な想像が許された時代だから、龍やドラゴンは、飛んだり火を噴いたり、魔力まであったことにされている。でも、その程度の間違いが有ったところで、現在の我々だって、何が正しいのか確かめようも無いのだ。従って古生代の地層から発見された巨大生物は、現在では「恐竜」と名称を改めただけであって、古代の「龍」も「ドラゴン」も実在していたことは、間違いのない事実なのだ。
posted by eno at 18:01| 考察・論文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月22日

赤頭巾は何歳なのか?

ペロー童話やグリム童話でお馴染の「赤頭巾」ですが、年齢は何歳くらいだと思いますか?

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先ずは、他のお伽噺を参考に考えてみましょう。
「眠り姫」では16歳の誕生日、「ラプンツェル」では18歳の誕生日と、物語の中に年齢設定があります。
殆どのお伽噺は、ヒロインのお姫様が、王子様と結婚して終わります。「シンデレラ」も「白雪姫」も、最後は王子様と結婚しますから、少女が、結婚(妊娠・出産)が可能になる頃の年齢だと考えるならば、大凡17歳前後だろうと推定できます。
「赤頭巾」は、物語の中では結婚しません。しかし、狼は悪い男性の隠喩だと深読みすると、赤頭巾も、それなりに男性を誘惑する年齢に達しているのかも知れません。

★ 映画「狼の血族」1984年イギリス
ロザリーンを演じたサラ・パターソンは、1972年1月生まれなので、撮影時には未だ12歳と推定されます。


「赤頭巾」は、原作の童話を素直に読めば、結婚も恋愛もしない、幼い子供の物語です。
子供であったとしても、独りで、道に迷わず、森を抜けられるのですから、少なくとも10歳以上の年齢には達しているだろうと考えられます。
宮崎駿監督のアニメ「千と千尋の神隠し」で、ヒロインの千尋は、異界に迷い込み、そこで両親を失い、独りで、冒険をして、ヒーローのハクに助けをられ、数々の試練を乗り越えて、最後には両親を救出します。少女に自立心が芽生え、精神的に成長する物語です。宮崎駿監督は、千尋の年齢を、10歳に設定しているそうです。

★ 映画「千と千尋の神隠し」2001年日本


象徴的なアイテムである「赤い色の頭巾」は、何を表すのでしょうか?
赤は血の色だと解釈すると、少女がそれを身に纏う意味は、初潮を暗示していると読み解けます。
平均的な初潮年齢は、12歳くらいです。肉体的に成長し、性が芽生え始める年齢です。心と体のバランスが揺れ動く、思春期の入り口で、少女は妖しい魅力を放ちます。そのような蠱惑に惹きつけられるのが、狼です。
12歳の少女の虜になる変態オヤジが、悪魔に魂を売り渡し、自己崩壊する物語が「ロリータ」です。
「赤頭巾」の物語では、狼が自滅するのはなく、猟師と赤頭巾に報復され、成敗されます。
「赤頭巾」と「ロリータ」は、本質的に違います。

★ 映画「ロリータ」1997年アメリカ。
原作はウラジーミル・ナボコフ小説で、ロリータコンプレックスの語源です。
原作では、ロリータの年齢は12歳の設定ですが、映画では14歳に変更しています。
ロリータを演じたドミニク・スウェインは、1980年12月生まれで、撮影時には15歳だそうです。


1994年11月公開の映画「レオン」は「赤頭巾」を原形とする物語です。マチルダを演じたナタリー・ポートマンは、1981年6月9日に生まれたので、撮影時には12歳です。レオンとマチルダの関係は、精神的には殆ど恋愛感情が芽生えていたと言っていいでしょう。しかし、肉体的に触れ合うことはありません。
もし、マチルダが17歳前後だったら、と想像してみると、性的に交わらないほうが不自然になります。

★ 映画「レオン」1994年フランス・アメリカ


他にも「赤頭巾」が原形だと解釈可能な映画として、2010年3月公開の映画「キック・アス」を挙げます。
ヒットガールを演じたクロエ・グレース・モレッツは、1997年2月10日に生まれたので、撮影時には12歳です。
この物語は、ヒーローの青年が成長する物語で、伏線でヒロインの復讐劇が絡んでくる、逆パターンです。

★ 映画「キック・アス」2010年イギリス・アメリカ


「赤頭巾」の本質は、少女の成長物語です。狼(悪党)に、お婆ちゃん(家族)を殺され、猟師(ヒーロー)に助けられ、最後は、赤頭巾(ヒロイン)本人が復讐します。 ★ 私の結論 ⇒ 続きを読む
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