2018年09月15日

Meditation

瞑想 (Meditation) するときには、何も考えてはいけない、と思っている人が、けっこう多くいます。

しかし、覚醒状態の脳は、常に何かを考えています。もし、脳が何も考えない(思わない・想わない)とすれば、それは眠るか、気絶するか、昏睡状態を意味します。そのような意識レベルの低下を、瞑想とは言いません。


瞑想とは、文字通り「瞑」という状態で、何かを「想う」精神活動です。

考えてはいけないのではなく、むしろ一生懸命に考えるのが、瞑想の本質だと言えます。


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 『何かをすることに理由がある、しないことに理由は無い』


熊のプーさんに 「なにしてるの?」 と訊くと 「なんにもしないをしているんだよ」 と答えます。

プーさんは、自分が 「なんにもしない」 と名付けた行動を、一生懸命にしているのです。

つまり、それ以外の余計なこと(邪念)に意識を分散させず、その何か一つだけに意識を集中しているのです。

それとよく似た行動を、我が家の猫たちにも見ることが出来ます。その状態を、私は「充満した空(くう)」と呼んでいます。


じゃあ、具体的に何をしているのか? ということになりますが、たとえば禅の修行を例に考えてみましょう。

「座る」という方法で瞑想するのが「座禅」であれば、それは座ることがテーマですから、ひたすら全力で座るだけです。

それと同様に、それ以外の様々な形や動きにもテーマがあります。ですから、そのテーマを全力でやればいいのです。

仕事でも、日常の生活動作でも、邪念を排して、全力でやるべきことのみに意識を集中するのが、禅の修行です。


何かをやることで意識が満たされてしまえば、それ以外の邪念は入り込む余地が無くなります。

逆に、集中が弱ければ、邪念が湧いてきて、瞑想状態が崩れます。


ヨガのポーズの一つに「屍のポーズ」があります。テーマは死体のように横たわることです。

もちろん、本当に死ぬわけにはいきませんから、呼吸などを維持して、それら以外の感覚から力を抜くのです。手足の力を抜いて、顔の力も抜いて、弛緩状態になります。目を瞑って、視覚を閉じます。そのようにして順番に感覚を閉じていきます。すると、耳だけは、閉じることが出来ないことに気付かされます。従って、全身の力が抜けたとき、音を聞く感覚だけが残り、それが意識の全てになります。ですから、むしろ積極的に、遠くの微かな音を聞くことに集中すると、全身の力が抜けた状態になれるわけです。全身が全て耳(聴覚)になればいいのです。


自分が見たいイメージ、感じたい感覚に、全力で集中して想うのが瞑想です。もしも、自分の中の潜在意識から湧き出るイメージが、全身を満してしまうのならば、外から入る現実の意識を全て追い出すことも可能です。意識と行為が完全に一致したとき、トランス状態に入ります。


逆に「考えてはいけない」と考えしまうと、瞑想できません。


たとえば、禁煙している人が、タバコが吸いたい気持ちを、必死で打ち消そうとするとき、むしろタバコについて考えている (邪念に囚われている) 状態です。今それをしていないことについて考えるのが邪念です。邪念は、打ち消せば打ち消すほど強くなります。意識は邪念で満たされていきます。


では、どうすればいいのでしょうか?


「してはいけない」なんて思わなければいいのです。


本当にしないのならば、否定の理由を考えるなんて無意味です。だって、しないのですから。

否定するということは、本当はしたいという、反対の欲望を隠して、偽っているからなのではないでしょうか?

葛藤とはそういうものです。自己矛盾、アンビバレンツ・・・ 人は、それを必死で正当化しようとします。

そのような、不自然な精神状態を脱して、自然体に向うのが瞑想です。


たとえば「戦争」とか「原発」を例に考えてみましょう。


「戦争をしない。戦力の保持をやめる」と宣言するのは無意味です。

しないと言っても、しなければならない状況に追い込まれたら、するのです。

ですから、しなければならない状況で、出来ないとしたら、むしろ不安です。


戦争をしたくないのなら、その逆の平和状態を維持するしかありません。

出来るけれども、する必要が無い状況を整えれば、不安も解消されます。


原発をやめるべき理由を並べ立てるのも無意味です。

やるべき理由によって、簡単に打ち消されてしまいます。

繰り返し述べているように、やる必要が無くなれば、やらないのです。それが自然体です。

ですから、自ずと原発が必要なくなるように、シフトを替えればいいのです。


何かを「しない」という発想は、自己正当化するための責任転嫁に過ぎません。

根本原因が、自分自身にある事実から、逃げたいのですね。

自分に向き合って、とことん考える必要があります。


【追記】(9月21日)
posted by eno at 22:42| 思った事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月22日

呪い返し(のろいがえし)

もし、誰かに呪われたら? そのような言葉を発せられたら?
自分も同じように呪いを返さなければならないのでしょうか?
いいえ、その必要はありません。人を呪って善いことなんて何一つありません。
ただ、相手の言葉を受け取らなければいいのです。
あなたの言葉(呪い)は私に届きません、と分からせればいいだけのことです。
受け取りを拒否された言葉は、差出人に送り返されます。
本当に、ただそれだけのことなのです。それだけでいいのです。
 
posted by eno at 14:43| 思った事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月13日

守破離

「守破離」は、武芸において、型から入り、型を破り、型から離れる、という成長の三段階を示す言葉です。この考え方は、他の物事にも当て嵌めて応用出来ます。しかし、多くの人々が、その解釈を誤解しているかも知れません。

「守」は、ひたすら型に倣い、習得することです。しかし、それだけを続けていると「型どおり」「型に嵌った」などと表現されるように、成長に行き詰まりを感じます。型とは、万人向けの規制品だからです。規制の型を卒業し、独自の型を編み出す段階に進まなければなりません。

次に「破」は、型を破ることですが、型を否定する意味ではありません。型は基本ですから、基本は変わりません。破るのは、型に依存して、自分の殻に篭もる「守りの姿勢」です。ですから、あえて決まりに反逆して「守」を破るのです。

そして「離」も、型を否定する意味ではありません。もし、型から離れることが、型をやめることならば、それは型を失うことです。「型が無ければ形無しだ〜!」などと言う人がよくいますが、全くその通りです。むしろ「もう型破りをやめろ!」という意味です。嵌ったり、破ったり、いつまでも型に囚われていないで「守・破」から離れなさい、と言っているのです。反〇〇や、アンチ〇〇というのが、最も〇〇から離れられていない“呪縛”の状態です。「離」とは、自然体のことです。

誤解は、自分に都合のいい解釈の捻じ曲げから生じるものです。
自己正当化しないで、自分を客観的に見つめ直してみればわかることです。

では、ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」を例に考えてみましょう。
「神は死んだ」という言葉がありますが、さて、これは「守・破・離」のどれに当て嵌まる」でしょう?

ニーチェの父親は、キリスト教の神父でした。ですから、ニーチェは、生まれた時から、父親に押し付けられ、キリスト教の信者でした。「神は死んだ」という言葉は、信仰の呪縛、そして父親の呪縛から、ニーチェが脱却した瞬間の心境です。リヒャルト・シュトラウスの交響詩を思い浮かべて想像してください。

ニーチェは、精神の三段階の成長を比喩して「駱駝・獅子・赤子」と表現しています。
「駱駝」とは、ニーチェが、大学で神学と古典文献学を学んだ時代のことです。それは、駱駝が重い荷物を背中に担ぐ様子に喩えられています。
「獅子」は形骸化した概念(固定観念)を打ち砕く、破壊力の象徴です。
ニーチェは、新聞を激しく批判し、否定しています。ニーチェの時代は、マスメディアは新聞しかありません。ですから、ニーチェは、マスメディアを激しく批判していたのです。つまり、反メディアは、今に始まった事ではなく、メディアの誕生と同時に、伝統芸のように存在していたわけですが、そのようなアンチ〇〇の心理が「獅子」です。

それらと同時に、ニーチェは「ルサンチマン」を批判しています。
実は、ニーチェが否定したかったのは、神でもマスメディアでもないと思います。
本当に批判したかったのは、ルサンチマンであり、大衆なのです。ですから、それらを見下し、軽蔑しました。ニーチェは、宗教に依存する信者を批判したかったのです。新聞を鵜呑みにするバカを批判したかったのです。

「赤子」は、呪縛から解放された自由な精神のことです。
ニーチェ自身、自分のコンプレックスを嫌というほど自覚していたはずです。教会を否定したところで、それらは何も変わりません。離れたって、離れたところにあるだけで、相手も、自分も、何も変わらないのです。新聞だってそうです、自分が読もうが、読むまいが、何も変わりません。ニーチェは、なかなか赤子になれません。

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posted by eno at 14:24| 思った事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月30日

呪い(まじない)について

『呪い(まじない))』って、どのように理解していますか?

言葉にすると、それが現実になることを「言霊(ことだま)」と言います。
たとえば「将来〇〇に成る」「絶対成功する」「どうせ失敗する」とか、言葉に出すことです。
声に出さず、文字にも書かず、心の中で念ずるだけでも、心理的な暗示効果があります。しかし、それを表明して、他者にも聞かせ、読ませることで、心理的な暗示効果は、より強まります。他者に伝えることは、約束をしたことにもなります。約束したことは、守りたくなります。更に、もし他者が、反対のことを考えている場合は、相手と自分と、どちらの考えが当たるのか、賭けになりますから、勝ちたい心理が作用します。もし、世間の大方の予想の裏を張って、鼻を明かしてやれば、優越感を得られます。

呪術とは、おまじない(呪詛、祝い)のことです。
たとえば、実際に病気で死にそうな人を、「病気で、もうすぐ死ぬ」と言ったとしても、それは、現在の状態を述べただけです。しかし、それに対して、呪文を唱えて「これで病気が治る」と告げれば、その言葉は、呪術性をおびます。逆に、元気な人に対して「もうすぐ病気にかかって死ぬ」と予言すれば、その言葉も呪術性をおびます。
それと同様に、本当にバカな人に対して「バカ」と言ったり、本当の悪人に対して「悪人」と言っても、それらが客観的な事実ならば、呪術性はありません。しかし、そうとは限らない人に対して「バカ」や「悪人」と罵れば、言霊によって、仮定を現実にしようとしているので、悪意の込められた呪詛になります。
善い事を褒め讃えたとしてもても、やはり呪い(まじない)になります。お祝いの言葉は「寿ぎ(ことほぎ)」となり、悼みや、祈りの、儀礼的な言葉も、呪術性をおびます。

怨念を、言葉にして投げつけるのは、暴力と同じで、呪詛になります。それは言うまでもありません。
しかし、反対に、人の善行に対して、褒めるのも、褒美を授けることで、上から目線の行為ですから、やはり良くない呪いです。ですから、褒めない代わりに、同じ目線に立ち、感謝の意を伝えましょう。
喜びや悲しみは、偽りのない感情を伝えるように努め、偽善的な言葉を言わないようにしましょう。
物事の良い悪いは、たとえ相手を怒らせたり、喧嘩になるとしても、事実を率直に言い、自分が悪いと気づいたら、素直に謝りましょう。

最も避けなければならないのは、自分の心に嘘をつくことです。それは、自分で自分に呪い(まじない)をかけたことになります。
それと、病気、事故、天災、戦争・・・ などの災いが、起きるとも、起きないとも、予想してはいけません。
たとえば、古代には、雨乞いの儀式というものがありました。生きた人間を、人柱として生贄にします(殺します)。そのような呪術は、現代では、あってはいけません。人は、予言をすると、無意識のうちに、予言を成就させようとして、思考を歪めてしまいます。終末思想がそうです。この世界が終わるとか、何かが滅びるとか、失うとか、脅して、だから呪術でそれを阻止したとか、歪んだ考え方です。

そんなことを言っている私ですが、年の始めに必ず初詣をして「おみくじ」を引きます。毎朝テレビで「めざまし占い」を見ます。
占いも、呪い(まじない)の一種ですが、忘れていた戒めを、何か一つ思い出させてくれます。一年に一つ、一日に一つ、それらのテーマを、心に留めておきたいのです。
神仏の前で祈ることは、自分自身の深層心理に溜まった、邪(よこしま)な心をスキャンして、クリアする(清める)ことです。
心のハードディスクから、不要なファイルや、悪意のあるソフトを削除して、出来る限り空き容量を増やしてクリーン(空)にしておきたいものです。

 

 
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posted by eno at 00:55| 思った事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月30日

人工知能

世間ではAI(人工知能)の話題がブームです。
なので、流行りのネタに乗って、少し考えてみましょう。

60年代、私が生まれた頃は、一般人の生活に、コンピュータは無縁でした。
70年代、ファミコン(コンピューターゲーム機)が開発され、流行します。
80年代、もう既にパソコンは販売されていましたが、未だ殆ど普及していません。
90年代に入ると、クリエイティブな職業にとって、パソコンは必需品になります。
90年代後半には、世界中のパソコン同士が、インターネットで繋がりました。
そこからは、堰を切ったように、コンピュータが私達の日常生活の中に流れ込んで来て、多くの人々がそうだったように、私もその頃から、自宅でパソコンを使い始めます。自分のホームページを作り、ブログを始め、SNSも始めます。21世紀は、クラウドコンピューティングが進み、2010年代には、殆どの人がスマホを持つようになりました。

私に近い世代の人間は、コンピュータがどのようなもので、どのように発達して、どのように我々の生活を変えてきたか、リアルタイムで見て、知っています。しかし、今の若い人たちは、生まれたときから、自然に在る物として捉えているのだろうと思います。たとえば幼稚園児くらいの子供の認知力では、お化けが実在すると思ってしまうのと同様に、人間と会話するコンピュータも、スピリチャルな存在として認知してしまうかも知れません。何でもできる魔法の道具だと錯覚してしまうかも知れません。そのような妄想に憑りつかれると、妙な思想や宗教に迷い込む心配がありますから、基本原理だけは、正しく教える必要があります。

先ず、これだけは断言します。コンピュータは、電子計算機に過ぎません。どんなにテクノロジーが発達しても、性能がアップするだけで、電子計算機以上の何かに変異することはありません。しかし、イメージ産業の人々は、何か特別なことが起きるかのような、期待や不安を煽ります。

さて、ここまでずっとコンピュータと言っていますが、コンピュータは電子計算機ですから、数学的な計算をする機械です。その機械が、問いに対して、答えを出す算法(アルゴリズム)が、AI(人工知能)です。

実を言うと、昔のSF小説などは、具体的な方法論までは考えず、漠然と、コンピューターの性能がアップすれば、やがてシンギュラリティ(技術的特異点)を突破して、機械が人間の知性を超えるだろうと、短絡的に考えていました。しかし、現実のコンピュータでは、ただ単に処理できる情報量が増えるだけでは、人間が計算して出せる答えを、より速く正確に大量に出せる、というだけのことに過ぎません。

ところが、近年では、量や速度だけではなく、人間には出来ない考え方で、人間が思いもよらない答えを出せる、人間の知性を質的に超えた人工知能が現われ始めました。つまり、アルゴリズムを発想転換することで、自分で学び、自分で考え、自分の答えを出す人工知能が開発されたのです。

もちろん、機械が心を持つことは在り得ません。それは、フィクションの中だけで許される空想のお話しです。だとしても、これまでに私達が想像していた機械のイメージが変わりました。これから先、どこまで変わっていくのか未だわかりません。もしかすると、人間のほうが、決まりきった、単純作業をしていればよくて、人工知能こそ、創造的な仕事を任されるような時代が来るのかも知れません。

ここからは余談ですが、AIはどうして独創的になれるのか? というと、それは、固定観念が無いからです。

人間は、固定観念に囚われています。そして、人間は、その固定観念からは、決して逃れられません。むしろ固定観念こそが人間を人間たらしめていると言っても過言ではありません。そもそも、人間には固定観念があると決めつけることだって、固定観念の成せる技です。我々の心は、そのような無意識の固定観念だらけなのです。だったら、自分の固定観念を洗い出して、かたっぱしから疑ってやろう、などと、悪足掻きを始めたくなります。しかし、それらを見つけたところで、どうやって取り除けばいいのかわかりません。とりあえず逆のことを考えて、プラスマイナスゼロで打ち消そうなどと、抗ってみせるのですが、それこそが、固定観念の思う壺なのです。

たとえば、借金がある人は、お金を返そうと思います。借金が無ければ、何も思いません。つまり、何かを打ち消そうと、その反対の事をしようと考える時点で、反対の観念に心を囚われています。ですから、借金の事など忘れて、ただ純粋に働けばいいのです。働いたら、結果的にお金が返せて、気が付いたら借金も無くなっています。いや、それにすら気が付かないかも知れません。つまり、ただ目の前のことに、純粋に没頭すればいいのです。

ピュアに、目の前の事に没頭していると、自分が没頭している事にも気づきません。努力も継続も同様です。たとえば、私たちは、生まれてから死ぬまで、途切れることなく呼吸を続けますが、そんな大変なことをしているのに、努力して呼吸しているとは感じません。人が、わざわざ努力や継続を意識して、口に出す時は、何か別の目的で、他者に対してアピールしているのです。

たとえば、賢くなりたいとします。賢いとは、バカの反対だから、バカを捜して、そいつらをバカにして、自分は反対のことをすればいい、そうすれば自分は賢く見える、などと思ったら、そう思うほうがバカなのです。そもそも賢くなりたいと思うのはバカだからです。既に賢いならば、そういう発想をしないはずです。

賢ぶったバカほど、目立つバカはありません。だからといって、反対に、無知の知を演じようとすれば、バカが、バカを丸出しするだけです。何をどうやったって、バカはバカなのです。そんなにバカが嫌なら、もうバカについて考えなければいいのです。バカの原因は、バカを逃れようと、自分で自分に嘘をつくことです。自分に正直になって、やりたい事に没頭して「〇〇バカ」になればいいのです。

最後に、少しだけ本題に戻って、AIの未来について考えてみましょう。
人工知能の発達は、我々の社会を、どのように変化させるのでしょうか?
既に述べたように、コンピュータそれ自体が性能アップしても、世の中を変えません。しかし、コンピュータ同士が、インターネットで繋がることで、世の中は革命的に変わりました。これから先、コンピュータは、あらゆる物に繋がり、あらゆるところで繋がります。その繋がり方は、網の目のように、互いが連携し合い、その連鎖を広げます。中央集権的な中枢を持たない、民主主義的な繋がりです。そのような民主化モデルは、生物の進化モデルとも符合します。つまり、多様化と自然淘汰の繰り返しによる、環境適応のモデルです。我々の社会も、そのように進化します。

私たち人間、一人一人は、どうすればいいのでしょう?
これも既に述べたように、物事の道理を理解し、イメージ産業に煽られることなく、自分が直面する課題に没頭すればよいのです。
 
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posted by eno at 01:43| 思った事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする