2024年06月20日

真夜中のカーボーイ

山田五郎著『真夜中のカーボーイ midnight cowboy 』幻冬舎(2020年)を読みました。
五郎さんから直々に、お手紙付きで送られてきた本です。

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私が榎塾をしている DORADO GALLERY は、元々はアンティーク時計ショップです。
アンティーク時計が趣味の五郎さんとは、OLDTIMES /DORADO SALON が御縁で知り合いました。

私は、仲間たちと共に、熊野那智大社に作品を展示するプロジェクトを計画中です。
那智大社は、那智の瀧を御神体として祀る神社です。
私が那智の瀧に興味を持ったのは、根津美術館にある国宝『那智瀧図』を見て、強く心惹かれたからです。
その那智瀧図が、すごーく謎だらけの絵で、いつ誰が何のために描いた絵なのか不明です。
そこで「古今東西数々の名画の謎解きをしている五郎さんなら那智瀧図も謎解き出来ちゃう?」みたいな話を、DORADO GALLERY 店主の小原氏としていました。
五郎さんは西洋画が専門で、日本美術の解説は少なく、那智瀧図についての解説も無かったと思います。
「でもYouTubeで神護寺三像についても解説してるから、那智瀧図も解説できるんじゃないかな? それとなく訊いてみて」と小原氏を促したら、しばらくして、付箋が貼られた一冊の本が届きました。

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本に添えられた手紙には「付箋した箇所に私の那智大滝観を綴ってあります」と書かれていました。
先ずは付箋の部分を読みたい!と思う気持ちを抑え、順を追って読み進めることにしました。

表紙のタイトルを見て、COWBOYの訳が、カウボーイではなく、カーボーイであるとに気づきます。
ダスティン・ホフマン主演のアメリカ映画『真夜中のカーボーイ』(1969年)があります。
当時のユナイト映画の宣伝部長水野晴郎氏が「都会的な雰囲気を演出したかった(Car=自動車=都会の象徴)」との理由で日本語訳をカーボーイと表記しました。
この小説の中でも、映画『真夜中のカーボーイ』について書かれています。
また、主人公の俺が、車(カー)を運転する事も、この小説の重要な要素になっています。
それでは、ネタバレ多目になりますが、この小説の解説と、私の感想を書いて参ります。

主人公が語り部となって物語は進みます。
主人公は、自分の事を「俺」と言います。
五郎さんも、いつも自分の事を「俺」と言い、私にはその発音が「オデ」みたいに聞こえます(笑)
ですから、自分の事を「オデ」と言う60才手前の主人公は、2015年頃の五郎さんという設定です。
小説の終盤に書かれていますが、この物語を本にする構想が始まり、2020年に書き上がり、講談社を退社後に出版した、となる訳です。

この物語には、もう一人の主人公である『デコ』という女性が登場します。
『オデ』と『デコ』ダブル主演です。
本名は妙子ですが、アールデコが好きというキャラ設定なので、綽名がデコです。
アールデコ調のデザインが好きなデコは、ジタンというタバコを吸っています。
確かに、学生の頃、ジタンやゴロワーズなど、水色のパッケージの洋モクを吸う女子が流行っていました。

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私は、あの独特過ぎる匂いが好きになれず、軟弱にもマイルドセブンを吸っていました(笑)
(早々に禁煙して、現在は全く吸っていません)
デコは、モデルの山口小夜子さんに似ているという設定です。
デコとオデは、高校生の頃、大阪の中之島で出合いました。

高校時代の五郎さんは、大阪に住んでいました。
デコは、その時代の彼女という設定です。
1976年8月18日、当時高校三年生の2人は、大阪から南紀白浜までバイクで向かいますが、その途中、オデがやらかしてしまったある事件によって、離れ離れになってしまいます。
そして39年後の8月18日、東京で再会するのですが…

オデとデコのかけ合いは、ほとんど夫婦漫才です(笑)
読みながら脳内で関西弁の音声を生成するのですが、慣れない関東人には少々負荷がかかります(笑)
面白おかしく会話する2人なのですが、直面する問題は深刻です。
余命宣告を受けたデコが、最後に、あのとき行けなかった白浜に連れて行って欲しいとお願いしに来たのです。

2人が会って話している場所は、おそらくリーガロイヤルホテル東京のスイートルームという設定です。

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2人は、ホテルの正面玄関を出て、目の前の新目白通りを渡り、神田川に架かる豊橋を渡り、豊川浴泉という銭湯に行ったであろうと読み解けます。
その界隈は、私が生まれ育った街で、昔は出版社や印刷・製本工場が集まる工場地帯でした。
私の父の小さな工場も在りました。
神田川が度々氾濫して、その一帯も何度か水没しました。

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今ではすっかり様子が変わってしまった街ですが、富士山のペンキ絵が描かれた豊川浴泉は、昔ながらの昭和レトロの佇まいを残しています。

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こちらは、富士山ではなく、トゥーン湖と二ーセン山。
スイスの画家ホドラーの作品です。

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2人が初デートで観た、思い出の展覧会がホドラー展だったそうです。

デコからの形見分け、カルティエ製ミュスティオーズ・モデルAを貰います。

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9月の第1週、オデは、白浜旅行のスタート地点となる大阪に行きます。
前乗りして、デコとの思い出の地、中之島を歩いて巡ります。

私は、大阪には何度か行きましたが、街の風景は詳しく知りません。
しかし、中之島は、大好きな映画、濱口竜介監督作品『寝ても覚めても』の冒頭シーンで見て、とても強く印象に残っている風景です。
『寝ても覚めても』では、国立国際美術館から堂島川沿いの西側の先端近くの遊歩道までの風景が映ります。
一瞬、通天閣や淀屋橋からの日銀大阪支店の映像もインサートされます。
五郎さんの小説では、淀屋橋の駅から、府立図書館に向かいます。

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次は、水晶橋に向かいます。

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その次は大江ビルヂング。

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そして、中之島の東の先端に向かいます。
島の先端は、船の舳先のように尖っています。

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ここで、高校生時代のオデとデコは、サモトラケのニケごっこをしたのです。
映画『タイタニック』のニケごっこは、それよりも後です。

翌朝、いよいよ、白浜に向けて出発します。
デコが用意した車は、真っ赤なメルセデスSL550です。

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オデが運転するオープンカーは、白浜に向けて出発します。
ロードムービーに欠かせないのが、カーオーディオから流れて来るBGMです。
ここで、デヴィッド・ボウイのファイブイヤーズをかけます。
刺さりました。


私は五郎さんよりやや後輩ですが、世代は近いので、聴いていた音楽も似ています。
だとしても、私にとっても思い出の曲なので、最初にこれが来たかぁ~!と思いました。
アルバム『ジギースターダスト』を聴いて、次に『レッツダンス』も聴きます。
私は、ジギースターダストツアーには行けませんでしたが、シリアスムーンライトツアーには行きました。


私は、中学から高校くらいまでは、クラッシク音楽を中心に聴いていました。
その次がモダンジャズで、ロックはFMラジオで流れて来るのを聴く程度でした。
高校時代は体育会系だった私が、突然美術に方向転換してから、聴く音楽の傾向もガラッと変わります。
遅れを取り戻すかのように60~70年代のグラムロックやプログレッシブロックも聴き直し、聞き込みました。

この小説には、未成年の喫煙や万引きが描かれています。
五郎さんて、素行の悪い不良少年だったの? と思うかもしれません。
もちろん悪い事ですが、現在のコンプライアンス意識で判断できるでしょうか?
60~70年代に思春期を通過した若者たちには、何かしら覚えがあると思います。
私は、子供の頃には、父親が吸うタバコが煙くて大嫌いでした。
今だって好きではありませんが、中学高校時代には、カッコつけて、隠れて喫煙をしました。
当時の子供は、仲間からガキ扱いされる事が、たまらなく嫌だったのです。
ケンカも、仲間同士で度胸があるところを見せ合わなければ、ヘタレ扱いされる風潮でした。
現在は、そのようなダークなマウントの取り合いは、SNSのイジメに引っ越したのかもしれません。

もちろん大いなる勘違いであると前置きした上で申し上げると、同じ物でも、お金で買うのと、野生的能力を覚醒させて手に入れるのとでは、価値が違うという心理が、万引きにも影響しているのではないかと分析します。
例えば、お金で買える疑似恋愛と、それこそハートを盗むのとでは、全く別ものです。
魚屋で買える魚を、なぜ海まで行って自分で釣り上げたいのか?
あまり無責任なコメントはできませんが、野生動物のようなハンティング(狩猟採集)を何かしら別の形に変換して昇華しないと、都市化された規律の中だけに閉じ込められるストレスを開放できないのかもしれません。
わかんないけど。

2人は、当初の目的地であった白浜に、あっけなく到着します。
そこで、南方熊楠記念館に行こう、となります。

南方熊楠がどのような人物かは、今更説明するまでもありませんよね?
一つだけ言及すると『やりあて』という言葉を言った(造語した)人です。
偶然の域を超えたような発見や発明、的中のことを言い表した言葉が『やりあて』です。
それについては、長くなるので、また別の機会に解説したいと思います。

南方熊楠という名前ですが、南方は、本州最南端に突き出た南紀地方にい多い名字で、文字通りに南の方角を意味しています。
熊楠の熊は、熊野地方の熊で、楠は、和歌山県海南市の藤白神社の大楠(おおぐす)です。
大楠は、樹齢数百年を超える御神木で、藤白神社は熊野九十九王子の一つで、古来より熊野三山(熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社)への正門でした。
この南方熊楠という名前の意味が、次の展開を示唆しています。

古代の神話によると、神武天皇の東征は、九州の高千穂から国の中心地である大和国の橿原を目指した「神武東遷」なのですが、船で出発して、瀬戸内海を通り、先ずは大阪湾から上陸します。
方角的には、西から東に向かっての進行方向で進みます。
しかし、その上陸は、敵に阻まれて失敗に終わります。
そこで、神武天皇は、方角を変更して、リベンジを試みます。
その方角こそが南方です。
紀伊半島の南端を、西から回って、東側から上陸地を探します。
そこで探し当て(やりあて)たのが、那智の瀧の発見です。
海岸線を回っていくと、海から那智の瀧が見えたのでしょう。

オデとデコのリベンジも、大阪から紀伊半島の南端を回って、那智の瀧を目指すことになります。
紀伊半島の最南端を通過し、南下から北上に転じたところに橋杭岩があります。

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前記事の最後に紹介した無量寺に行く途中に、橋杭岩はありました。
その風景が、ピンクフロイドの『炎』の付録のポスカによく似ているのです。

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カーオーディオはピンクフロイドへ。



流れる曲に合わせて歌いながら那智勝浦に到着します。

リアルな設定で書かれている小説なので、実話がベースになっているとするならば、2015年の秋に、五郎さんは実際に那智の瀧に行った、ということになります。
そこで五郎さんがどんな体験をしたのか、瀧を目の前に、どう感じたのか、いよいよ付箋の貼られた部分が近づいて来ました。

その前に、2人は、那智山青岸渡寺別院である補陀洛山寺に立ち寄ります。

そこで、エマーソン レイク&パーマー『キエフの大門』の、death is life (死こそ我が生なり)という歌詞について語り合います。


そこで見たものは、補陀洛渡海船の実物大復元模型。

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那智参詣曼荼羅。

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その後、いよいよ那智の瀧に到着します。
ここから先は、ご自分で本を手に取って読んで欲しいです。

少しだけお話しすると、伊藤若冲の『象と鯨図屏風』の話が出てきます。

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像も鯨も体が大きい動物で、人間の可聴域を超えた低周波を聞き取ることができ、長距離のコミュニケーションが可能だといわれています。
那智勝浦の太地くじら浜公園には『くじらの博物館』があります。
デコが唱える那智の瀧と海との低周波説とは?

熊野古道を更に三重県側に進むと、花窟神社という、伊弉冊尊(イザナミノミコト)を祀った神社があります。
私もそこに行きましたけれど、凄い巨岩が在って、それが黄泉の国の入り口を塞いでいるそうです。
デコは、最後にそこに立ち寄りたいと言いますが…

読了後、未だ判然としないのは、この物語が、どこまで実話で、どこから作り話なのか、妄想なのか、記憶の改竄なのか…
絵画の謎を解くのと同様に楽しませてくれる作品です。

【お知らせ】
根津美術館で、7月27日(土)~8月25日(日)『美麗なるほとけ』-館蔵仏教絵画名品展-が開催予定で『那智瀧図』が展示されます。

最近、NHKの大河ドラマ『光る君へ』を観ていたら、平安時代から宋人が渡来しているので、もしかしたら鎌倉時代に渡来した宋人の絵師が『那智瀧図』描いた可能性もあるのではないか?などとも猜っています。
また久しぶりに観られる機会なので、よーく観て、じっくり考えてみようと思います。

【追加情報】
東京国立博物館
『創建1200年記念 特別展「神護寺―空海と真言密教のはじまり」』
前期展示:7月17日(水)~8月12日(月・休) 
後期展示:8月14日(水)~9月8日(日)
国宝伝源頼朝像(でんみなもとのよりともぞう)
鎌倉時代・13世紀 京都・神護寺蔵
【展示期間】
前期展示 7月17日(水)~8月12日(月・休)



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2024年06月05日

謎解き那智瀧図

前回 は、蛇使いの女から、蛇女(メドゥーサ)まで、蛇にまつわる謎解きになりました。
今回は、国宝『那智瀧図』の謎解きです。
 
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この絵は、子供の頃から何となく知っていて、私が最も好きな絵の一つです。
絹本に彩色、縦160.7cm 横58.8cm、掛軸としては、とても大きい絵です。

この絵に描かれている瀧は、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』を構成する熊野三社の御神体、飛瀧権現(那智御瀧)です。
和歌山県那智勝浦に在る那智の瀧は、落差が133mもあり、栃木県日光の華厳の瀧、茨城県大子の袋田の瀧と共に、日本三名爆の一つに数えられています。

権現(ごんげん)とは、仏教の仏様が、仮の姿として、神道の神様の姿で現れることです。
那智の瀧は、紀元前662年、初代天王の神武天皇の時代に、神道の神、大己貴神(大国主神)が瀧の姿で現れたと解釈され、自然の瀧それ自体が御神体として崇拝されます。
仁徳天皇の時代(313年‐399年)にインドから渡来した裸形上人が、那智の瀧の滝壺で修行中に黄金の如意輪観世音菩薩坐像を見つけたとされ、それを仏教の御本尊として、現在の青岸渡寺である如意輪堂が建立されます。

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那智の瀧の姿は、千手観音菩薩のように見える(感じられる)と言われます。
千手観音菩薩が、仮の姿として、那智御瀧の姿を借りて、日本人の前に現れたと解釈するそうです。
このような、神仏習合の解釈を本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)といい、この掛け軸は、その御神体を描いた垂迹画(すいじゃくが)の御本尊です。

明治元年の神仏分離令による廃仏毀釈で、多くの仏教美術がガラクタ化し、散逸します。
那智瀧図は、武器商人であった赤星弥之助(1853‐1904)のコレクションになりました。
弥之助の没後、大正6年(1917)息子の鐡馬(1882‐1951)がコレクションを売立に出します。
収集家の根津嘉一郎(1860‐1940)が、那智瀧図を落札しました。嘉一郎の没後、1941年に根津美術館が開館し、那智瀧図は収蔵品になります。
昭和6年、旧国宝に措定され、昭和26年、国宝に指定されました。
江戸時代以前の記録はありません。

1958年、フランスの作家、アンドレ・マルローが日本を訪問し、この絵を見て「アマテラス!」と叫んだと伝えられ「滅多に私は自然というものに感動させられることがなかったが・・・」「滝は、あの滝は、太陽のサクレ(聖なるもの)であると言ってはいけないだろうか。見たところ、那智の滝は落下している。だがイマージュとしては、同時に上昇してもいるのだ。その点、これらの杉の大木と意味は少しも変わらない」「…この飛瀑図は、至高の記号であり、カリグラフィーである…月は、滝の、まぶしい可逆的となっている…」などと感想を述べたそうです。
1974年、マルローは、那智の瀧を「自然の精神化としての神」「内より実在する自然である」と述べ、実際の那智の瀧を訪問しています。
マルローといえば「神護寺三像」を高く評価したエピソードでも知られています。
マルローによって、これらの絵が脚光を浴びるようになり、おそらくその当時まだ子供であった私でさえも知ることになったのでしょう。

画面を詳細に見て行くと、瀧の下のほうに拝殿が描かれていて、その拝殿の左側に描かれているのが、卒塔婆(そとば)らしいのです。
卒塔婆は、弘安4年(1281年)に亀山上皇(1249‐1305)が、蒙古退散を祈願して奉納したと考えられています。
飛瀧権現(大国主神であり千手観音菩薩)に、神風を吹かせてくださいと頼んだ、ということですね。
従って、熊野御幸(くまのごこう)の後、13世紀末から14世紀初め頃に、亀山上皇が京の絵師に命じて那智瀧図を描かせたのではないか? と推測する説が有力とされています。

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絵の構図を見ると、絵師が瀧を写生した位置は、如意輪堂(青岸渡寺)から、少し瀧に向かって近づき、上は銚子口から背景の山、下は滝壺から拝殿まで、瀧全体が見える位置であったろうと推定します。

この絵が描かれた当初の色は、現在の色とは違っていると思いますが、全体的に暗く、特に空が暗いことから、夜の情景を描いていると推定されています。
経年劣化で変色して暗くなっているのだとすれば、夜ではないのかも知れません、断定することは難しいです。
仮に夜だとすると、山の上に顔を出しているのは月輪ということになります。
夜でも、満月の光があれば、瀧は白く浮かび上がるように見えます。
実際に、私も、那智の瀧に行って、観察して確かめています。
山の樹木が紅葉しているので、11月頃の瀧を描いたのだろうと推理しました。
晴れた満月の夜に、同じような見え方の那智の瀧を見ました。

ここで、謎というか、矛盾が生じます。
絵師は、如意輪堂の周辺から、遠目に瀧を見ていたと思います。
望遠レンズで撮影したような、大きな月輪の見え方で描かれています。
しかし、私も実際に現地で観察しましたが、瀧は、北を背に南向きに落ちています。
満月は、南の空から、瀧に正対し、月光を照射しています。
瀧の背後に月輪が見えるはずがあり得ません。百歩も千歩も譲って、描かれている位置に月が見えたとするならば、逆光になった崖は暗くなり、瀧は見えないはずです。

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当然ですが、絵師は日中に写生を行なっているはずです。
その下絵を元に、夜に見た瀧の色合いを思い出して彩色したのだろうと思います。
夜を想定して描いたとわかるように、月輪をレイアウトしたのでしょうか?

月輪の図像を仏教的に解釈すれば、千手観音菩薩の心を象徴します。
その月輪を円相に見立てれば、他の垂迹画に見られる特徴にも一致します。
東京国立博物館の春日本地仏曼荼羅や、春日鹿曼荼羅にも、山上に浮かぶ大円相が描かれています。
神が垂迹し、本地仏が姿を現す鏡のイメージが重なり、円相が中央に表されたと考えられます。

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もう一つ、那智の瀧には、八咫烏がいます。
八咫烏は、三本足の烏の姿をしています。
アニメーション映画『すずめの戸締り』で、すずめを道案内する椅子も、三本足でした。
神武天皇も、すずめも、九州の日向から船で出発して、東に向かいます。
瀬戸内海を通って、大阪湾からの上陸を試みた神武天皇は、それに失敗し、紀伊半島を回って、那智勝浦からの再上陸に成功します。
その理由は、天照大神の子孫である神武天皇は、太陽を背にして、光の指し示す道に向かって、大和の橿原(かしはら)に降臨するのが正しい、と考えたから、とされています。

東征に八咫烏が登場するのは、ここからです。
丹敷浦(にしきうら)現在の那智の浜に到着した神武天皇は、那智の瀧を発見し、そこで八咫烏に出会います。
そこから八咫烏の導きにより、中州(なかつしま)奈良県の宇陀まで行きます。この区間は、ほぼ直線状の北上ルートです。

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東征の後、八咫烏は、那智の瀧に戻り、烏石になって、今もそこに休んでいる、とされています。
天照大神が太陽で、八咫烏は日時計の針と同じように、方角を示す影の喩えとも考えられます。
南から北に差し込む太陽光線によって出来る自分の影法師は、北を指し示しています。従って、太陽に正対する那智の瀧の発見こそが八咫烏との出会い、と考えることができます。
神社では、天照大神を象徴する青銅の鏡を御神鏡として、太陽に正対するように祀ります。

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那智大社には、御神鏡が無く、那智の瀧が御神体であり、御本尊です。那智瀧図で、瀧の背後から、瀧と共に太陽に正対している月輪は、この瀧が御神体であり、御本尊であると示すために、神社に祀られる御神鏡を比喩して描かれたのかも知れません。
つまり、三種の神器の一つである、八咫鏡です。
八咫鏡と八咫烏は、セットで考えられているのだろうと思います。
八咫鏡の中に棲んでいるから、八咫烏と名付けられたのだと考えるべきでしょう。
ちなみに、八咫の意味は、長さです。
1咫が約18cmなので、その8倍で、144cmです。
八咫鏡の直径は46.5cmなので、円周は46.5×3.14 =146.01cmです。

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中国の故事に『金烏玉兎(きんうぎょくと)』があります。『金烏』は太陽、『玉兎』は月です。
太陽の中には三本足の烏が住んでいて、月の中には兎が住んでいる、という神話です。太陽と月なので、歳月が過ぎていくことを言います。

月に兎がいるのは、月を眺めていると兎が餅をついているような影が見えるので、納得できます。
太陽に烏がいるのは、古代人が、太陽黒点を観測して、黒い点なので烏に喩えたのではないか? という仮説があります。

八咫烏が三本足だと書かれている最古の文献は、平安時代中期(930年頃)の「倭名類聚抄」です。
この時代に、中国から『金烏』の伝承が日本に伝わり、八咫烏と同一視され、三本足になったと思われます。

中国に残る最も古い『三足烏(さんそくう、さんぞくう)』の考古学的遺品は紀元前5000年の中国揚子江下流域に遡ります。
古代中国の文化圏で広まっていた陰陽五行説では偶数を陰、奇数を陽とします。太陽は陽なので、太陽に関係する金烏は三本足である、とされたのではないか、という説があります。

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それ以外にも、三本足の理由を考えてみます。
那智の瀧の参道には道案内の鳥居が立てられています。
古代の鳥居には、三柱鳥居(みはしらとりい)があります。
この鳥居は、古代の鳥葬と関係しています。鳥葬は、古代ペルシャのゾロアスター教に始まり、日本に渡来しました。ハゲタカがいないので、死者の魂を天に運ぶ鳥は烏(カラス)です。
三柱鳥居の烏は、天(太陽)から来て、天(太陽)に帰る特別な烏です。
昔から、烏の死骸を見ないと言われ、烏は地球上に棲んでいない説があります。
三柱鳥居の由来は不明ですが、渡来人秦氏・陰陽道・ユダヤ教・修験道に由来するなど、諸説あります。これらの説は、面白いのですが、ちょっと怪しいです(笑)

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もう一つは、那智の瀧を見に行って思ったのですが、瀧の銚子口を見ると、三本の筋に分かれて流れ落ちているのです。那智の瀧は、太い一本の瀧ではなく、中央がやや太く両脇がやや細い三本の瀧として落ち始め、途中から合わさって一本になります。

那智の瀧が先か、八咫烏が先か、互いに三本という共通点から比喩し合っているように思えます。仏教で『三』は、三宝、中道、悟り、を意味する数字です。神道では、三柱(造化三神)を意味します

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この那智瀧図は、神道をテーマに描こうとした絵なのか? 仏教をテーマに描こうとした絵なのか? どちらの意味も重ね合わせようとした絵なのか? いずれにせよ、いつ、誰が、何のために描いたのか謎なのですから、何故そんなふうに描いたのだろう? という疑問に対する答えは、どのような仮説を立てても、それを立証する記録が見つからない限り、永遠に謎のままです。

実際に、那智の瀧の前に立ってみると、マルローが「この瀧は落ちているのではない、登っている」と言ったように、昇り龍を感じます。
地形的に、周囲を山に囲まれた谷間で、落差が130メートル以上ある懸崖です。
海から近く、強い風を受け、上昇気流が発生します。私が観に行ったときも、晴れた青空に、突然、瀧の真上から白龍のような雲が湧き出ました。
アニメ映画『千と千尋の神隠し』のハクにそっくりな雲です。
強い風に煽られると、瀧筋自体も、大蛇のようにうねります。

那智瀧図を描いた絵師が誰なのかわかりませんが、那智の瀧を観察して、きっと私と同じような感覚を体験したであろうと思います。

絵の描き方を見ると、研究者が指摘しているように、宋元画の手法が見て取れます。
推定通りに、元寇(蒙古襲来)直後の時期に描かれた絵だとすると、元(蒙古)に滅ぼされた南宋の絵師が、日本に逃れて、蒙古退散を祈願したこの絵を描いた可能性もあります。

空想を描く山水画ではなく、現実を写す真景図でもなく、自然を観察する中から神性を抽出して描いています。

鋭い一筋の瀧の姿は、日本刀を思わせます。日本人の、日本独自の、日本の宗教画の始まりではないでしょうか?

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