来年は巳年ということで、テーマを広げて、蛇についても考えてみます。

この絵は、たぶん中学の美術の教科書に載っていたかなにかで知ったと思います。
私は新宿区民だったので、子供の頃から、新宿の街によく遊びに行っていました。
当時は、新宿駅東口に新宿アルタというビルがあって、その地下1階にマクドナルドがありました。
私の記憶が正しければ、マクドナルドの壁画が、もしかしらルソーの『蛇使いの女』の模写だったか、それによく似たジャングルの絵だった気がします。
もう40年以上も前の記憶なので、あまり正確ではないかも知れませんが、それを見てルソーをイメージした記憶が残っています。
新宿界隈で、私が好きでよく行った場所は、新宿御苑の中にある大温室でした。
この大温室が、まさにルソーが描くジャングルを彷彿とさせる場所なのです。
昔は、吉祥寺の井の頭自然文化園にも大温室があって、温室の中では、オオハシやサイチョウが飼育されていました。
私は、ルソーが描くジャングルは、そのような植物園の温室を描いていると直感しました。
描かれている動物たちも、動物園の動物たちに違いありません。
その後、ルソーについての解説書を読みましたが、やはりパリ植物園の温室を見て描いたらしいことが書いてありました。
私は、子供の頃から、動物園・水族館・植物園が大好きでしたから、ルソーの気持ちが想像できます。
学生時代、私は上野動物園の水族館(今は無い)でアルバイトをしていました。
科学博物館も大好きな場所でした。
だいぶ時が経って、サッカー・ワールドカップ・パリ大会が開催された年に、パリに旅行して、オルセー美術館でルソーの実物の絵を観ました。
ルソーは、外国旅行をしたことがなく、ずっとパリで暮らしていたそうです。
『蛇使いの女』は、友人の画家の母親から、インド旅行の体験談をテーマに描いてほしいと、注文を受けて制作したらしいのです。
もちろん、ルソー自身は、インドに行ったこともないし、蛇使いを見たこともありません。
ですから、パリ植物園の温室で見たジャングルっぽい風景に、動物園で見た蛇と、ルソーが勝手に想像した蛇使いを描いたのだろうと思います。
蛇使いが、男なのか女なのか、どんな服装で、どんな笛を吹いているのかも知らないのでしょう。
インド人だから、肌の色が黒いだろう、くらいの想像だけで描いたのかもしれません。
蛇使いの女が描かれたのは1907年です。
その6年前、1901年にウィーンで開催された第10回分離派展で、クリムト作の『医学』という作品が公開されています。
外国に行ったことがないルソーですが、その写真画像を見た可能性はあります。
その絵に描かれている女を、蛇使いだと思って参考にしたのかも知れません。

人物の後ろの背景の塊と空間の抜けの配置が似ています。
インドニシキヘビは、水辺に生息しているので、ジャングルと水辺を描くことにしました。
参考にした絵が女なので、蛇使いは女になりました。
蛇使いの服装がわからないので、黒っぽい人影にして誤魔化しました。

横笛を吹かせると、笛が顔の右側に突き出るので、手の向きを左右反転させました。
女の画像を左右反転させると、手のポーズが似ています。
ルソーは、クリムトの絵を、表面的に参考にしただけで、その意味を深く理解せずに描いたのであろうと推察します。
なので、出来上がった絵は、とても謎めいた絵になりましたが、ルソー自身は、この蛇使いに特別な意味を込めていません。
これが私の仮説です。
なので、ルソーの絵はここまでにして、元ネタになったクリムトの『医学』のほうを見ていきましょう。
クリムトの絵に描かれいるのは、題名の『医学』の通りに、病と死に苦しむ人間たちの前に立ちはだかるギリシャ神話の医学の女神ヒュギエイアです。
ヒュギエイアは、アポロンの息子である医学の神アスクレーピオスの娘です。
女神が手に持ってるのは、薬の液体が入ったガラス杯です。
女神に絡みついて、杯の液体に頭を突っ込んでいる蛇は、父アスクレーピオスの杖カドゥケウスに絡みつく蛇と同様に、医学のシンボルとしてのクシスヘビです。
医学のシンボルが、なぜ蛇なのでしょう?
実は、ギリシャ神話によると、アスクレーピオスは死者を甦らせる薬を使うのですが、その薬というのは、女神アテナから授かったメドゥーサの血だったのです。
メドゥーサは、不死身だったので、その生き血は薬になりました。
メドゥーサは、元々は豊穣の女神で、とても美しい女性でしたが、その美しさに嫉妬した女神アテナによって、醜い蛇女に変えられてしまいました。
蛇女にされたことで不死身になったのだとすると、蛇には不老不死の力があるということです。

クリムトは、ベートーヴェンフリーズの中にメドゥーサを描いています。
それは、正面を向いて直立する裸婦の姿で描かれています。
クリムトは、同様の直立するポーズの裸婦『ヌーダ・ヴェリタス』も描いています。

ヌーダ・ヴェリタスでは、裸婦の足元に、意味ありげに蛇が描かれています。
そして、クリムトは、メドゥーサを蛇女に変えてしまったアテナの絵も描いていて、アテナの手に、ヌーダ・ヴェリタスの裸婦を持たせているのです。

おやおや? です。
もしやもしや? です。
その裸婦って、もしかしたら、蛇女に変えられてしまう前のメドゥーサの姿なのでは?
ヌーダ・ヴェリタスとは、裸の真実という意味です。
女の手には、手鏡があり、それをこちらに向けています。

鏡といえば、ペルセウスがメドゥーサの首を切りに行くとき、アテナがペルセウスに鏡の盾を持たせます。
それは、蛇女の姿を直接見ると石になってしまうので、鏡に映して見るためです。
だとすると、鏡に映ったメドゥーサは、蛇女ではなく、元の女神の姿に見えたのではないでしょうか?
それが真実の姿という意味なのかもしれません。
ペルセウスは、ヘルメスから、翼のついたサンダル、タラリアを借ります。
そのサンダルを使うと、空中を飛ぶように走ることができます。
このヘルメスという神様も、蛇が絡み付いた杖を持っています。
ヘルメスの杖は、ケーリュイオンといい、2匹の蛇が絡み合っています。

ヘルメスも、そもそもは豊穣の神で、子孫繁栄の道祖神として、直立した石像の姿で辻々に立っていたらしいのです。
それが、旅人にとって道標となり、ヘルメスが旅人の神様へと変わっていきます。
子孫繁栄の道祖神だとすると、男性のシンボルだけではなくて、女性のシンボルも存在していたはずです。
古代に豊穣の女神だったメドゥーサが、そのお相手の女性だったとしたら?
メドゥーサの姿を見たヘルメスが、石のように硬くなってしまったのだとしたら?
クリムトと同時代にウィーンで活躍した心理学者のフロイトが、メドゥーサについて言及しています。
私は読んでいませんが、フロイト全集の第17巻に、フロイトの見解がが書いてあるらしいのです。
それによると、メドゥーサは、女性器を暗示しているそうです。
興味深い話ですが、コンプライアンス委員会からダメ出しされそうです(笑)
また別の機会に、榎塾とかで、詳しくお話します。
クリムトは、その他にも、蛇に関係する絵を描いています。
『水蛇Ⅰ』と『水蛇Ⅱ』です。


クリムトは、ドイツ語で『Wasserschlangen(Freundinnen)』という題名を付けています。
直訳すれば『水蛇(女友達)』になります。
日本語訳の水蛇(ミズヘビ)は、陸上のヘビとウミヘビの中間のようなヘビです。
陸上のヘビと同じ形をしていますが、淡水中に生息していて、ほとんど陸には上がりません。
ウミヘビは、尾のほうがヒレ状に変形して、魚のように泳ぎ、海中に生息しています。
英訳で『The Hydra』と題名が意訳されている場合があって、それだと全く意味が違ってきます。
Hydra(ヒュドラ)は、ギリシャ神話の怪物で、九つの頭を持ち、沼に棲む大蛇です。
日本の神話に出て来る九頭竜や、ヤマタノオロチによく似た、大蛇型の竜です。
絵を見るかぎりでは、明らかにヒュドラとは違います。
欧米人の感覚としては、クリムトのことだから、ギリシャ神話を題材として、それを擬人化して、自分のガールフレンドをモデルにして描いたのだろう、と推察して、題名を意訳しているのでしょう。
たしかに、蛇といいながら、擬人化して描いているのは間違いないのですが。
しかし、神話のヒュドラを描いているのなら、頭が九つ必要ですが、女は二人とか、四人しか描かれていません。
これは、サブタイトルが女友達と書かれている通りに、裸の女同士が抱き合ったり、戯れている絵です。
背景に、水生生物や水草が描かれているので、女たちは水の中にいます。
おそらく、クリムトは、性的な行為の感覚を、水中で滑る蛇に喩えているのだと思います。
(コンプライアンス委員会を恐れず、ハッキリ言ってしまえば、水蛇とは水の中の蛇で、水の中の蛇とは女性器の中の男性器です)
妖艶な女たちが、見るものを誘惑する絵です。
ヨーロッパ人の精神構造は、古代ギリシャ神話が、深層心理の土台に在ります。
その土台の上に、キリスト教の聖書が、精神の支柱のように立てられています。
その支柱の上に、ルネッサンス以降の近代科学が、屋根のように載っています。
そう考えると、キリスト教的な蛇の解釈も載っかっていると思います。
蛇は、サタンの誘惑を意味する象徴でもあるからです。
人類にとって、西洋医学の発達は、知恵の樹の林檎を食べることかも知れません。
高度な知恵である科学の力によって、不死身の体を手に入れたとすると…

ヨーロッパ文化の構造を神殿の構造に喩えると、基礎の土台が古代ギリシャ文明、構造体の支柱がキリスト教信仰、屋根(ファサード)が近代科学です。
では、それと同じように、東アジア文化も建築物に喩えてみましょう。
基礎の土台になるのは、古代中国の黄河文明です。
構造体の支柱になるのは、仏教信仰です。
そして、屋根の部分は、ヨーロッパに遅れて近代化を進めています。
では、東アジアにおける、蛇に象徴される意味は何でしょう?
古代中国の思想には、陰陽五行思想や、神仙思想があります。
古代中国の天文学では、北極星を亀に喩え、北斗七星を蛇に喩えています。
ですから、北極星の周りを北斗七星が回っている様子を、石のように動かない亀、縄のように絡みつく蛇で表し、それを玄武と名付け、北の方角を守護する神様にしました。

蛇は、仏教的には、三毒の一つである『瞋(じん)』を象徴する動物として描かれます。
瞋(じん)とは、自分の思い通りにならないことに対する怒り・憎しみ・怨念の感情です。
そして、蛇は、絡みつくものとして、執着心にも喩えられます。
その反面、蛇が脱皮をする様子は、執着を捨てて『解脱』に至る喩えにも用いられます。

『蛇に睨まれた蛙』という諺があります。
獲物を狙う蛇に睨まれた蛙が、恐怖のあまりに、石にように固まって動けなくなる、という意味でが…
★ 京都大学で、蛙の行動の理由が科学的に解明されました。
つまり、蛇を見た蛙は、石のように固まりますが、蛙を見た蛇も、石のように固まります。
神道の注連縄(しめなわ)は、2匹の蛇が絡み合う形に由来するそうです。
古代ギリシャの道祖神、ヘルメスの杖、ケーリュイオンに共通します。
絡み合う蛇は、交尾をしています、子孫繁栄を象徴してるのです。


ギリシャ神話に、テイレシアスという盲目の予言者の話があります。
テイレシアスは男です。
ある日、酒に酔って山道を歩いていたテイレシアスが、交尾している蛇に遭遇します。
テイレシアスは、蛇を杖で打ちました。
すると、テイレシアスは女になってしまいました。
それから9年後、テイレシアスは、再び交尾中の蛇に遭遇します。
そしてまた、蛇を杖で打ちました。
すると、テイレシアスは、元の男に戻りました。
あるとき、ゼウスと妻のヘラが、男と女と、どちらのほうが性交による快感が大きいのかと言い争いになりました。
ヘラは、男と女と、どちらも経験しているテイレアシスに、その答えを尋ねました。
すると、テイレアシスは、男の快感が1で、女の快感が9と答えました。
その答えに怒ったヘラは、テイレアシスを盲目にしてしまいました。
この話は、交尾して絡み合う蛇が、雄雌(男女)が捩じれ、交差し、入れ替わっているようだ、と言いたいのでしょう。
『玄』という漢字は、注連縄のように、捩じった糸を表す象形文字です。
『弓』に『玄』を張ると、それは『弦』になります。
ヘルメスは、亀の甲羅に弦を張って、竪琴の元型のような楽器を作ったとされています。
亀に蛇が絡みついて玄武、亀の甲羅に弦を張ってヘルメスの竪琴。
いずれにせよ、ヘルメスが、蛇に関係してることは確かです。
蛇とメドゥーサも深く関係しています。
ヘルメスとメドゥーサの関係も、蛇のように絡み合っています。
ギリシャ神話では、ゼウスが、白鳥に変身したり、黄金の雨に変身したりして、女を襲います。
それと同様に、ヘルメスも、自ら蛇と化し、メドゥーサへと向かって行ったのかも知れません。
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