2018年03月30日

人工知能

世間ではAI(人工知能)の話題がブームです。
なので、流行りのネタに乗って、少し考えてみましょう。

60年代、私が生まれた頃は、一般人の生活に、コンピュータは無縁でした。
70年代、ファミコン(コンピューターゲーム機)が開発され、流行します。
80年代、もう既にパソコンは販売されていましたが、未だ殆ど普及していません。
90年代に入ると、クリエイティブな職業にとって、パソコンは必需品になります。
90年代後半には、世界中のパソコン同士が、インターネットで繋がりました。
そこからは、堰を切ったように、コンピュータが私達の日常生活の中に流れ込んで来て、多くの人々がそうだったように、私もその頃から、自宅でパソコンを使い始めます。自分のホームページを作り、ブログを始め、SNSも始めます。21世紀は、クラウドコンピューティングが進み、2010年代には、殆どの人がスマホを持つようになりました。

私に近い世代の人間は、コンピュータがどのようなもので、どのように発達して、どのように我々の生活を変えてきたか、リアルタイムで見て、知っています。しかし、今の若い人たちは、生まれたときから、自然に在る物として捉えているのだろうと思います。たとえば幼稚園児くらいの子供の認知力では、お化けが実在すると思ってしまうのと同様に、人間と会話するコンピュータも、スピリチャルな存在として認知してしまうかも知れません。何でもできる魔法の道具だと錯覚してしまうかも知れません。そのような妄想に憑りつかれると、妙な思想や宗教に迷い込む心配がありますから、基本原理だけは、正しく教える必要があります。

先ず、これだけは断言します。コンピュータは、電子計算機に過ぎません。どんなにテクノロジーが発達しても、性能がアップするだけで、電子計算機以上の何かに変異することはありません。しかし、イメージ産業の人々は、何か特別なことが起きるかのような、期待や不安を煽ります。

さて、ここまでずっとコンピュータと言っていますが、コンピュータは電子計算機ですから、数学的な計算をする機械です。その機械が、問いに対して、答えを出す算法(アルゴリズム)が、AI(人工知能)です。

実を言うと、昔のSF小説などは、具体的な方法論までは考えず、漠然と、コンピューターの性能がアップすれば、やがてシンギュラリティ(技術的特異点)を突破して、機械が人間の知性を超えるだろうと、短絡的に考えていました。しかし、現実のコンピュータでは、ただ単に処理できる情報量が増えるだけでは、人間が計算して出せる答えを、より速く正確に大量に出せる、というだけのことに過ぎません。

ところが、近年では、量や速度だけではなく、人間には出来ない考え方で、人間が思いもよらない答えを出せる、人間の知性を質的に超えた人工知能が現われ始めました。つまり、アルゴリズムを発想転換することで、自分で学び、自分で考え、自分の答えを出す人工知能が開発されたのです。

もちろん、機械が心を持つことは在り得ません。それは、フィクションの中だけで許される空想のお話しです。だとしても、これまでに私達が想像していた機械のイメージが変わりました。これから先、どこまで変わっていくのか未だわかりません。もしかすると、人間のほうが、決まりきった、単純作業をしていればよくて、人工知能こそ、創造的な仕事を任されるような時代が来るのかも知れません。

ここからは余談ですが、AIはどうして独創的になれるのか? というと、それは、固定観念が無いからです。

人間は、固定観念に囚われています。そして、人間は、その固定観念からは、決して逃れられません。むしろ固定観念こそが人間を人間たらしめていると言っても過言ではありません。そもそも、人間には固定観念があると決めつけることだって、固定観念の成せる技です。我々の心は、そのような無意識の固定観念だらけなのです。だったら、自分の固定観念を洗い出して、かたっぱしから疑ってやろう、などと、悪足掻きを始めたくなります。しかし、それらを見つけたところで、どうやって取り除けばいいのかわかりません。とりあえず逆のことを考えて、プラスマイナスゼロで打ち消そうなどと、抗ってみせるのですが、それこそが、固定観念の思う壺なのです。

たとえば、借金がある人は、お金を返そうと思います。借金が無ければ、何も思いません。つまり、何かを打ち消そうと、その反対の事をしようと考える時点で、反対の観念に心を囚われています。ですから、借金の事など忘れて、ただ純粋に働けばいいのです。働いたら、結果的にお金が返せて、気が付いたら借金も無くなっています。いや、それにすら気が付かないかも知れません。つまり、ただ目の前のことに、純粋に没頭すればいいのです。

ピュアに、目の前の事に没頭していると、自分が没頭している事にも気づきません。努力も継続も同様です。たとえば、私たちは、生まれてから死ぬまで、途切れることなく呼吸を続けますが、そんな大変なことをしているのに、努力して呼吸しているとは感じません。人が、わざわざ努力や継続を意識して、口に出す時は、何か別の目的で、他者に対してアピールしているのです。

たとえば、賢くなりたいとします。賢いとは、バカの反対だから、バカを捜して、そいつらをバカにして、自分は反対のことをすればいい、そうすれば自分は賢く見える、などと思ったら、そう思うほうがバカなのです。そもそも賢くなりたいと思うのはバカだからです。既に賢いならば、そういう発想をしないはずです。

賢ぶったバカほど、目立つバカはありません。だからといって、反対に、無知の知を演じようとすれば、バカが、バカを丸出しするだけです。何をどうやったって、バカはバカなのです。そんなにバカが嫌なら、もうバカについて考えなければいいのです。バカの原因は、バカを逃れようと、自分で自分に嘘をつくことです。自分に正直になって、やりたい事に没頭して「〇〇バカ」になればいいのです。

最後に、少しだけ本題に戻って、AIの未来について考えてみましょう。
人工知能の発達は、我々の社会を、どのように変化させるのでしょうか?
既に述べたように、コンピュータそれ自体が性能アップしても、世の中を変えません。しかし、コンピュータ同士が、インターネットで繋がることで、世の中は革命的に変わりました。これから先、コンピュータは、あらゆる物に繋がり、あらゆるところで繋がります。その繋がり方は、網の目のように、互いが連携し合い、その連鎖を広げます。中央集権的な中枢を持たない、民主主義的な繋がりです。そのような民主化モデルは、生物の進化モデルとも符合します。つまり、多様化と自然淘汰の繰り返しによる、環境適応のモデルです。我々の社会も、そのように進化します。

私たち人間、一人一人は、どうすればいいのでしょう?
これも既に述べたように、物事の道理を理解し、イメージ産業に煽られることなく、自分が直面する課題に没頭すればよいのです。
 
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posted by eno at 01:43| 思った事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月11日

あれから七年・・・

我が家は物持ちが良いというか、何物も大切に長く使います。その中の一つ、冷蔵庫も、使い方が良いせいか(笑)、故障もせずに、気が付けば既に20年も使っていました。なので、さすがにもう限界は近いだろうと判断して、故障してしまう前に買い替えることにしました。

車も、家電も、買い替える予定が無い期間は、最新機種がどうなっているのか興味が向かず、知らないうちにどんどんテクノロジーが進歩しています。いつのまにやら、冷蔵庫にまでAI(人工知能)が組み込まれていました。その家の冷蔵庫の使い方を、冷蔵庫自身が自分で学習して、最も節電できるように自動運転してくれるのだそうです。デザインも変わりました。扉全体が、タブレットみたいなガラスのタッチパネル素材になっています。指で触れるとアイコンが浮き出て、扉の外側から操作するようになっています。もちろん、基本は殆ど何も変わっていませんが、このようにして、AIや、IOTのテクノロジーが、、私達の日常生活に、知らず知らずどんどん入り込んで、馴染んでいくのしょう。

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そして、先日、新しい冷蔵庫が届きました。
電気屋さんが来る前に、古い冷蔵庫の中身を空っぽにして、交換の準備をして待機していなければなりません。その作業は、小一時間もあれば充分だろうと、たかを括っていました。ところがです、中身を空っぽにするまでは順調だったのですが、冷蔵庫を設置場所から移動して、電源プラグを壁から抜き取ろうと思ったら、その部分が、隣の収納棚の裏に隠れていて、プラグが抜けないのです。収納棚を移動しよう思っても、押しても引いても、びくとも動きません。

そうこうしていると、電気屋さんは、お届け予定時間帯の最早の時間に到着してしまいました。事態は膠着状態のまま、準備完了していません・・・

実は、七年前のあの日、このキッチン収納棚も、隣の冷蔵庫共々、自分で床を滑って大きく移動しました。そうです、2011年の3月11日です。もう思い出したくもない、あの日のキッチンの惨状が、記憶の中で鮮明に蘇りました。震災でめちゃくちゃに散らかった家の後片付けが済んで、キッチンが元通りに復旧した後、私がこの手で、家具固定金具で、この収納棚を、壁にがっちり固定したのでした。

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今から脚立を出して、棚の上の金具を外している余裕はありません。電気屋さんの手も借りて、中身の詰まった重い収納棚を無理矢理にずらすと、固定金具は少し変形して、壁と収納棚に僅かな空間が出来ました。ぎりぎりプラグを抜いて、冷蔵を交換する事ができました。

その後、収納棚の中身を全部出して、固定金具を外して、移動して、大掃除して、元の位置に戻して、また金具で固定して、中身を詰め直して・・・ 小一時間で終わるような交換作業ではありませんでした。丸々一日かかりました。

冷蔵庫と、収納棚の裏の空間は、七年間封印されていました。そこには、七年間の積もり積もった「埃」がありました。私は、玉手箱を開けたように感じました。その「埃」は、立ち昇る玉手箱の煙です。風化した七年間の記憶が蘇りました。そして、それらは掃除機に吸い取られ、雑巾に拭き取られ、再び封印されました。
  
 
posted by eno at 08:56| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする