2018年05月30日

犬ヶ島

映画「犬ヶ島」を観ました。


公開初日(25日)に観たかったのですが、あれこれ予定が重なって、今日になってしまいました。
高まった期待値を遥かに超える面白さでした。

お話し(ストーリー)というより、表現が面白いのです。それは、言葉では説明できないので「観ろ!」としか言えません。お腹に響くような和太鼓の重低音が、印象的で効果的です。だから、絶対に劇場で観たほうがいいです。 
  
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2018年05月12日

パターソン

映画「パターソン」のDVDを観ました。


最近、色々な映画を観ているものの、バカバカしい娯楽作品ばかり選んで見ていたせいか、感想を書いていませんでした。久々に心に残る映画を観たので、感想を書きます。

登場人物が素敵です、犬もかわいいし。道で出会った 少女とのシーン が好きです。

この映画では、詩がテーマになっているので、言葉(セリフ)が多いのですが、それらは詩ですから、ストーリーを説明する意味を持っていません。むしろ無言に近いと考えていいでしょう。言い換えれば、無言もまた詩に近いということです。

ジム・ジャームッシュ監督といえば、1984年の『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(Stranger Than Paradise)が印象的でした。
ストーリーらしいストーリーがなく、セリフの無い、無言のシーンが多く、何が言いたいのか、よくわかりませんでした。つまり、何かを言いたいのではなく、ただそれを見せたいということなのでしょう。


やはり、パターソンも、物語性の無い坦々とした映画でした。
どうして、こういう映画を面白いと思うのか? 不思議です。
でも、僕は、こういう映画が好きです。
実は、映画にとって、ストーリーは、あまり重要ではないんじゃないかな? と思うのです。
もちろん、ストーリーが面白いから好きな映画もありますが、観た後で、心に残っているのは、あのシーンが良かったとか、あのセリフが良かったとか、全体としてよりも、断片的なシーンだったりします。ですから、そのようなシーンの集積のような映画は、心に残る良い映画になるはずです。ストーリーは、それらを繋げて、見る者を引き込む流れです。それが、急流であったり、あるいは淀みであったり、緩急があったり、作品によって、差があるのではないでしょうか? ただそこに浮かんで、漂うように、同じ景色を眺めているだけで、何処にも流されない映画もあるのです。
 
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posted by eno at 00:20| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月08日

アサリ

昨日(5月7日)は、僕の誕生日だったので、アサリを食べました。

妻と二人で、午前中に家を出て、音楽を聴きながら、ドライブして、高島屋までアサリを買いに出かけました。
到着して、先ずは、お寿司屋さん(庶民的だけど美味しい店)でお昼を頂き、それから食品フロアに行きました。
お買い得だったので、空豆も買いました。お肉はどうしようかと考えて、薄切りハムを二枚買いました(それで充分)。
お買い得のアサリは、粒の大きさが揃っていません。ここは妥協せず、粒の大きさが揃っているアサリを買いました。
何故なら、アサリを買うのが目的で、わざわざここまで来たからです。

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誕生日なのですが、生クリームとか、こってりしたケーキは食べられないので、バームクーヘンを少し切ってもらいました。

お買い物は、dポイントが溜まっていたので、全部ポイントで買えちゃいました d(*´▽`*)

で、またドライブして、家に帰り着くと、雨が降り始めました。
雨は次第に激しくなって、豪雨になりました。早めに帰ってきて良かったです。

アサリは白ワイン蒸しにして頂きました。とても美味しかったです。


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2018年04月30日

呪い(まじない)について

『呪い(まじない))』って、どのように理解していますか?

言葉にすると、それが現実になることを「言霊(ことだま)」と言います。
たとえば「将来〇〇に成る」「絶対成功する」「どうせ失敗する」とか、言葉に出すことです。
声に出さず、文字にも書かず、心の中で念ずるだけでも、心理的な暗示効果があります。しかし、それを表明して、他者にも聞かせ、読ませることで、心理的な暗示効果は、より強まります。他者に伝えることは、約束をしたことにもなります。約束したことは、守りたくなります。更に、もし他者が、反対のことを考えている場合は、相手と自分と、どちらの考えが当たるのか、賭けになりますから、勝ちたい心理が作用します。もし、世間の大方の予想の裏を張って、鼻を明かしてやれば、優越感を得られます。

呪術とは、おまじない(呪詛、祝い)のことです。
たとえば、実際に病気で死にそうな人を、「病気で、もうすぐ死ぬ」と言ったとしても、それは、現在の状態を述べただけです。しかし、それに対して、呪文を唱えて「これで病気が治る」と告げれば、その言葉は、呪術性をおびます。逆に、元気な人に対して「もうすぐ病気にかかって死ぬ」と予言すれば、その言葉も呪術性をおびます。
それと同様に、本当にバカな人に対して「バカ」と言ったり、本当の悪人に対して「悪人」と言っても、それらが客観的な事実ならば、呪術性はありません。しかし、そうとは限らない人に対して「バカ」や「悪人」と罵れば、言霊によって、仮定を現実にしようとしているので、悪意の込められた呪詛になります。
善い事を褒め讃えたとしてもても、やはり呪い(まじない)になります。お祝いの言葉は「寿ぎ(ことほぎ)」となり、悼みや、祈りの、儀礼的な言葉も、呪術性をおびます。

怨念を、言葉にして投げつけるのは、暴力と同じで、呪詛になります。それは言うまでもありません。
しかし、反対に、人の善行に対して、褒めるのも、褒美を授けることで、上から目線の行為ですから、やはり良くない呪いです。ですから、褒めない代わりに、同じ目線に立ち、感謝の意を伝えましょう。
喜びや悲しみは、偽りのない感情を伝えるように努め、偽善的な言葉を言わないようにしましょう。
物事の良い悪いは、たとえ相手を怒らせたり、喧嘩になるとしても、事実を率直に言い、自分が悪いと気づいたら、素直に謝りましょう。

最も避けなければならないのは、自分の心に嘘をつくことです。それは、自分で自分に呪い(まじない)をかけたことになります。
それと、病気、事故、天災、戦争・・・ などの災いが、起きるとも、起きないとも、予想してはいけません。
たとえば、古代には、雨乞いの儀式というものがありました。生きた人間を、人柱として生贄にします(殺します)。そのような呪術は、現代では、あってはいけません。人は、予言をすると、無意識のうちに、予言を成就させようとして、思考を歪めてしまいます。終末思想がそうです。この世界が終わるとか、何かが滅びるとか、失うとか、脅して、だから呪術でそれを阻止したとか、歪んだ考え方です。

そんなことを言っている私ですが、年の始めに必ず初詣をして「おみくじ」を引きます。毎朝テレビで「めざまし占い」を見ます。
占いも、呪い(まじない)の一種ですが、忘れていた戒めを、何か一つ思い出させてくれます。一年に一つ、一日に一つ、それらのテーマを、心に留めておきたいのです。
神仏の前で祈ることは、自分自身の深層心理に溜まった、邪(よこしま)な心をスキャンして、クリアする(清める)ことです。
心のハードディスクから、不要なファイルや、悪意のあるソフトを削除して、出来る限り空き容量を増やしてクリーン(空)にしておきたいものです。

 

 
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posted by eno at 00:55| 思った事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月30日

人工知能

世間ではAI(人工知能)の話題がブームです。
なので、流行りのネタに乗って、少し考えてみましょう。

60年代、私が生まれた頃は、一般人の生活に、コンピュータは無縁でした。
70年代、ファミコン(コンピューターゲーム機)が開発され、流行します。
80年代、もう既にパソコンは販売されていましたが、未だ殆ど普及していません。
90年代に入ると、クリエイティブな職業にとって、パソコンは必需品になります。
90年代後半には、世界中のパソコン同士が、インターネットで繋がりました。
そこからは、堰を切ったように、コンピュータが私達の日常生活の中に流れ込んで来て、多くの人々がそうだったように、私もその頃から、自宅でパソコンを使い始めます。自分のホームページを作り、ブログを始め、SNSも始めます。21世紀は、クラウドコンピューティングが進み、2010年代には、殆どの人がスマホを持つようになりました。

私に近い世代の人間は、コンピュータがどのようなもので、どのように発達して、どのように我々の生活を変えてきたか、リアルタイムで見て、知っています。しかし、今の若い人たちは、生まれたときから、自然に在る物として捉えているのだろうと思います。たとえば幼稚園児くらいの子供の認知力では、お化けが実在すると思ってしまうのと同様に、人間と会話するコンピュータも、スピリチャルな存在として認知してしまうかも知れません。何でもできる魔法の道具だと錯覚してしまうかも知れません。そのような妄想に憑りつかれると、妙な思想や宗教に迷い込む心配がありますから、基本原理だけは、正しく教える必要があります。

先ず、これだけは断言します。コンピュータは、電子計算機に過ぎません。どんなにテクノロジーが発達しても、性能がアップするだけで、電子計算機以上の何かに変異することはありません。しかし、イメージ産業の人々は、何か特別なことが起きるかのような、期待や不安を煽ります。

さて、ここまでずっとコンピュータと言っていますが、コンピュータは電子計算機ですから、数学的な計算をする機械です。その機械が、問いに対して、答えを出す算法(アルゴリズム)が、AI(人工知能)です。

実を言うと、昔のSF小説などは、具体的な方法論までは考えず、漠然と、コンピューターの性能がアップすれば、やがてシンギュラリティ(技術的特異点)を突破して、機械が人間の知性を超えるだろうと、短絡的に考えていました。しかし、現実のコンピュータでは、ただ単に処理できる情報量が増えるだけでは、人間が計算して出せる答えを、より速く正確に大量に出せる、というだけのことに過ぎません。

ところが、近年では、量や速度だけではなく、人間には出来ない考え方で、人間が思いもよらない答えを出せる、人間の知性を質的に超えた人工知能が現われ始めました。つまり、アルゴリズムを発想転換することで、自分で学び、自分で考え、自分の答えを出す人工知能が開発されたのです。

もちろん、機械が心を持つことは在り得ません。それは、フィクションの中だけで許される空想のお話しです。だとしても、これまでに私達が想像していた機械のイメージが変わりました。これから先、どこまで変わっていくのか未だわかりません。もしかすると、人間のほうが、決まりきった、単純作業をしていればよくて、人工知能こそ、創造的な仕事を任されるような時代が来るのかも知れません。

ここからは余談ですが、AIはどうして独創的になれるのか? というと、それは、固定観念が無いからです。

人間は、固定観念に囚われています。そして、人間は、その固定観念からは、決して逃れられません。むしろ固定観念こそが人間を人間たらしめていると言っても過言ではありません。そもそも、人間には固定観念があると決めつけることだって、固定観念の成せる技です。我々の心は、そのような無意識の固定観念だらけなのです。だったら、自分の固定観念を洗い出して、かたっぱしから疑ってやろう、などと、悪足掻きを始めたくなります。しかし、それらを見つけたところで、どうやって取り除けばいいのかわかりません。とりあえず逆のことを考えて、プラスマイナスゼロで打ち消そうなどと、抗ってみせるのですが、それこそが、固定観念の思う壺なのです。

たとえば、借金がある人は、お金を返そうと思います。借金が無ければ、何も思いません。つまり、何かを打ち消そうと、その反対の事をしようと考える時点で、反対の観念に心を囚われています。ですから、借金の事など忘れて、ただ純粋に働けばいいのです。働いたら、結果的にお金が返せて、気が付いたら借金も無くなっています。いや、それにすら気が付かないかも知れません。つまり、ただ目の前のことに、純粋に没頭すればいいのです。

ピュアに、目の前の事に没頭していると、自分が没頭している事にも気づきません。努力も継続も同様です。たとえば、私たちは、生まれてから死ぬまで、途切れることなく呼吸を続けますが、そんな大変なことをしているのに、努力して呼吸しているとは感じません。人が、わざわざ努力や継続を意識して、口に出す時は、何か別の目的で、他者に対してアピールしているのです。

たとえば、賢くなりたいとします。賢いとは、バカの反対だから、バカを捜して、そいつらをバカにして、自分は反対のことをすればいい、そうすれば自分は賢く見える、などと思ったら、そう思うほうがバカなのです。そもそも賢くなりたいと思うのはバカだからです。既に賢いならば、そういう発想をしないはずです。

賢ぶったバカほど、目立つバカはありません。だからといって、反対に、無知の知を演じようとすれば、バカが、バカを丸出しするだけです。何をどうやったって、バカはバカなのです。そんなにバカが嫌なら、もうバカについて考えなければいいのです。バカの原因は、バカを逃れようと、自分で自分に嘘をつくことです。自分に正直になって、やりたい事に没頭して「〇〇バカ」になればいいのです。

最後に、少しだけ本題に戻って、AIの未来について考えてみましょう。
人工知能の発達は、我々の社会を、どのように変化させるのでしょうか?
既に述べたように、コンピュータそれ自体が性能アップしても、世の中を変えません。しかし、コンピュータ同士が、インターネットで繋がることで、世の中は革命的に変わりました。これから先、コンピュータは、あらゆる物に繋がり、あらゆるところで繋がります。その繋がり方は、網の目のように、互いが連携し合い、その連鎖を広げます。中央集権的な中枢を持たない、民主主義的な繋がりです。そのような民主化モデルは、生物の進化モデルとも符合します。つまり、多様化と自然淘汰の繰り返しによる、環境適応のモデルです。我々の社会も、そのように進化します。

私たち人間、一人一人は、どうすればいいのでしょう?
これも既に述べたように、物事の道理を理解し、イメージ産業に煽られることなく、自分が直面する課題に没頭すればよいのです。
 
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posted by eno at 01:43| 思った事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする