2018年08月14日

みんなちがって、みんなダメ

金子みすゞ の詩の一節「みんなちがって、みんないい」をパロって「みんなちがって、みんなダメ」と題した本を読みました。著者は、イスラム学者の中田考氏です。

帯には『「君たちはどう生きるか」を読むとバカになる!』と書かれています。

君たち2.jpg

「君たちはどう生きるか」は、吉野源三郎著のベストセラーです。
もちろん、私も読みましたが、私は「君たちはどう生きるか」を名著だと思っています。

「君たちはどう生きるか」の主人公は、コペル君と呼ばれる少年です。コペル君という呼び名は、コペルニクスに因んで名付けられているのですが、中田氏に言わせると、コペルニクスをモデルにしているところがダメなのだそうです。

コペルニクスは、発想を転換する人物の象徴であって、主人公の呼び名に利用されただけに過ぎず、ストーリーとはあまり関係ないように、私には思えたのですが・・・

主題は、コペル君が失敗をして、それをどのように克服するか、というお話しです。私はコペル君の心の葛藤に共感しました。そして、自分の心の中で解決してくプロセスに考えさせられました。妻にも読んでもらいましたが、彼女はあまりピンと来ていなかったようです。

本には、共感するポイント(相性)というものがあります。更には、著者が言いたい事をどのように解釈するかという、読み手の読解力もあります。自分に都合がいいように解釈して(都合よく利用して)しまう人もいます。

中田氏は、ベストセラーの権威を利用して、それを否定することで、読者を挑発しようとしたのです。ですから、タイトルでも同様に、金子みすゞ の詩を利用して「みんなちがって、みんなダメ」とパロったのです。

中田氏は「みんなちがって、みんないい」だと「いい」は価値があることだと解釈し、価値があれば、価値の高さを比べるとして、それは競争に繋がり、アメリカ的資本主義の価値観だと展開していきます。だからみんな不幸になるのだと言うのです。それを「みんなダメ」に書き換えれば、ダメには価値が無いので、比較が生じない、競争も生じないと言うのですが・・・

金子みすゞ の「みんなちがって、みんないい」の「いい」には、皆が違う(多様性)を、それでもいい(許容する)という意味が含まれていて、むしろそれが、この詩で表現したい意味の本題になっています。それを、文字通りに「いい」は価値があるとだけ解釈しようとするところが、読解力不足というか、むしろ恣意的な曲解だと思います。この場合の「いい」は、優劣を意味する「いい・悪い」の「いい」ではなく、許しを意味する「いい」なのです。

中田氏の主張を読んで行っても、事程左様に詭弁を弄するばかりで、何が言いたいのかよく分からないというか、常識的な価値観を転倒させたいがために、裏張りしているだけというのが透けて見えるのです。そして、その先の目的に、誘導したい何かが見えてくるのです。

中田氏が誘導したい何かというのは、言うまでも無く「イスラム教」です。

比べるな、と言いつつ、それに矛盾して、中田氏は比べているのです。イスラム教が一番「いい」のだと。それが言いたいのです。

いくら話しがとっちらかっても、最終的には「神」に帰結して、総ては神が決めるのだとして、人間はバカなのだと結論づけます。

正直言って、読んでいて面白いは面白いです。良いこともたくさん書かれています。私に騙されたと思って、ぜひ読んでみてください。きっと面白いし、ためになる本だと思います。しかし、中田氏のレトリックに騙されて、洗脳されないでください。そこのところは十分な警戒心を持って読んでください。特に、宗教に免疫の薄い若者諸君は、原理主義に感化されないように気を付けてください。

兎にも角にも、中田氏の主張の大前提が「神(創造主)」の存在なのですが、そんなものが無くたって(信じなくたって)、現実に我々は存在しているし、生きているし、幸せにもなれます。逆に言えば、イスラム教徒だって、不幸を感じている人はいると思います。洗脳されることで、脳内で幸せになればそれでいい、という考え方は、はっきり言って逃避です。現実から目を背け、妄想の中に逃げ込んでいるに過ぎません。アメリカ的資本主義の競争があるのなら、逃げずに競争すればいい。結果的に競争に負けったっていい。それで「みんなダメ」じゃないのです「みんないい」のです。

神が無くても、それでも人間は幸せに生きられます。
神は自分の心の中に作り出せます、神は妄想なのです。
 
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posted by eno at 23:29| 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月22日

呪い返し(のろいがえし)

もし、誰かに呪われたら? そのような言葉を発せられたら?
自分も同じように呪いを返さなければならないのでしょうか?
いいえ、その必要はありません。人を呪って善いことなんて何一つありません。
ただ、相手の言葉を受け取らなければいいのです。
あなたの言葉(呪い)は私に届きません、と分からせればいいだけのことです。
受け取りを拒否された言葉は、差出人に送り返されます。
本当に、ただそれだけのことなのです。それだけでいいのです。
 
posted by eno at 14:43| 思った事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月13日

守破離

「守破離」は、武芸において、型から入り、型を破り、型から離れる、という成長の三段階を示す言葉です。この考え方は、他の物事にも当て嵌めて応用出来ます。しかし、多くの人々が、その解釈を誤解しているかも知れません。

「守」は、ひたすら型に倣い、習得することです。しかし、それだけを続けていると「型どおり」「型に嵌った」などと表現されるように、成長に行き詰まりを感じます。型とは、万人向けの規制品だからです。規制の型を卒業し、独自の型を編み出す段階に進まなければなりません。

次に「破」は、型を破ることですが、型を否定する意味ではありません。型は基本ですから、基本は変わりません。破るのは、型に依存して、自分の殻に篭もる「守りの姿勢」です。ですから、あえて決まりに反逆して「守」を破るのです。

そして「離」も、型を否定する意味ではありません。もし、型から離れることが、型をやめることならば、それは型を失うことです。「型が無ければ形無しだ〜!」などと言う人がよくいますが、全くその通りです。むしろ「もう型破りをやめろ!」という意味です。嵌ったり、破ったり、いつまでも型に囚われていないで「守・破」から離れなさい、と言っているのです。反〇〇や、アンチ〇〇というのが、最も〇〇から離れられていない“呪縛”の状態です。「離」とは、自然体のことです。

誤解は、自分に都合のいい解釈の捻じ曲げから生じるものです。
自己正当化しないで、自分を客観的に見つめ直してみればわかることです。

では、ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」を例に考えてみましょう。
「神は死んだ」という言葉がありますが、さて、これは「守・破・離」のどれに当て嵌まる」でしょう?

ニーチェの父親は、キリスト教の神父でした。ですから、ニーチェは、生まれた時から、父親に押し付けられ、キリスト教の信者でした。「神は死んだ」という言葉は、信仰の呪縛、そして父親の呪縛から、ニーチェが脱却した瞬間の心境です。リヒャルト・シュトラウスの交響詩を思い浮かべて想像してください。

ニーチェは、精神の三段階の成長を比喩して「駱駝・獅子・赤子」と表現しています。
「駱駝」とは、ニーチェが、大学で神学と古典文献学を学んだ時代のことです。それは、駱駝が重い荷物を背中に担ぐ様子に喩えられています。
「獅子」は形骸化した概念(固定観念)を打ち砕く、破壊力の象徴です。
ニーチェは、新聞を激しく批判し、否定しています。ニーチェの時代は、マスメディアは新聞しかありません。ですから、ニーチェは、マスメディアを激しく批判していたのです。つまり、反メディアは、今に始まった事ではなく、メディアの誕生と同時に、伝統芸のように存在していたわけですが、そのようなアンチ〇〇の心理が「獅子」です。

それらと同時に、ニーチェは「ルサンチマン」を批判しています。
実は、ニーチェが否定したかったのは、神でもマスメディアでもないと思います。
本当に批判したかったのは、ルサンチマンであり、大衆なのです。ですから、それらを見下し、軽蔑しました。ニーチェは、宗教に依存する信者を批判したかったのです。新聞を鵜呑みにするバカを批判したかったのです。

「赤子」は、呪縛から解放された自由な精神のことです。
ニーチェ自身、自分のコンプレックスを嫌というほど自覚していたはずです。教会を否定したところで、それらは何も変わりません。離れたって、離れたところにあるだけで、相手も、自分も、何も変わらないのです。新聞だってそうです、自分が読もうが、読むまいが、何も変わりません。ニーチェは、なかなか赤子になれません。

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posted by eno at 14:24| 思った事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月10日

機会費用と御縁

読書の話ですが、今更ながら中上健次を読みました。
たぶん、自分には相性が悪いだろうと、読まずにそう決め込んでいました。
で、実際に読んでみると、やはり、思った通り相性が悪いのです。

先ずは「18歳」を読んで、18歳くらいの男の子は、精液ばっかり出しているのは、まあわかります。次に「19歳の地図」を読んで、公衆電話が、今だったらインターネットなのだろう、とか思ったりしました。それで、それなりに面白い部分もあるのですが、でも、もういいと思いました。しかし、もう一つだけ読んでみようと思って「千年の愉楽」を読み始めました。ところが、ちっとも読み進まなくて、誰にも感情移入できなくて、途中で読むのをやめました。

だったら感想を書く必要も無いのですが、ただ、単に面白くないからスルー、というのとも少し違います。もしかしたら、もう少し我慢して読めば面白いのかも知れない、とも思うのです。しかし、結論としては、読まなくていいと判断しました。それが「相性が悪い」ということなのです。

本を読むには、それなりに時間を費やします。もし、この本を読まなかったら、その機会費用を別の何かに交換できます。でも、それは読んでみなくちゃわからないことなのです。ですから、それらは全て御縁なのです。
 
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posted by eno at 00:08| 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月30日

犬ヶ島

映画「犬ヶ島」を観ました。


公開初日(25日)に観たかったのですが、あれこれ予定が重なって、今日になってしまいました。
高まった期待値を遥かに超える面白さでした。

お話し(ストーリー)というより、表現が面白いのです。それは、言葉では説明できないので「観ろ!」としか言えません。お腹に響くような和太鼓の重低音が、印象的で効果的です。だから、絶対に劇場で観たほうがいいです。 
  
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posted by eno at 22:20| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする